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室内のソファーに腰掛けていても、窓越しに海と空が良く見える。この事務所は、海洋公園内でもかなり良いロケーションに位置しているテナントだった。 波留は応接スペースのソファーに腰掛けたまま、ぼんやりとした瞳を窓の外へと向けていた。彼は身体を深く背もたれに預け、両腕を大きく広げて背もたれに乗せている。一見して寛いでいる体勢だった。 空はオレンジ色に染まりつつあり、海との境界線が微細かつ様々な色彩を帯びていた。沖合までが視界に入っていて、レジャーボートから定期船まで何種類かの船舶がゆったりと航行している。いつもの人工島の風景である。穏やかで緩やかな空気が外には流れているのだろう。 現在、自動ドア形式の玄関口も窓も開けていない。そのため、外の空気は室内の人間には伝わってこない。潮の香りも海からの風も、中には届いてこなかった。 そもそも波留には、自らの瞳に映る風景すら曖昧だった。彼の日常であるその光景は、いつもならば心を休めてくれる。しかし今の彼には最早どうでも良かった。 ――波留真理様。 不意に、ある女性の声が彼の脳裏に響き渡った。 ――大切なものを喪ったあなたにとって、本当に、人工島は未だに楽園なのですか? それは、波留が中国大陸を去る際、あの女性秘書から問われた言葉だった。その言葉が今更、彼の脳内にて明確に再生される。 問い掛けた側は、事前に自らの解答を波留へと寄越していた。――人工島は自分にとって最早楽園ではないから、去ったのだと。 仕える主と共に在る場所こそが、彼女の楽園なのだ。彼女にとって、それは単純明快な論理だった。秘書自身は明言こそしなかったものの、彼女にとっての「大切なもの」を波留が改めて理解するに充分な台詞だった。 その判断と論理が正しいのかは、波留には判らない。しかし確固たる意志の元に下されたその判断を、彼は目の当たりにした。それに圧倒される思いだった。 一方の波留は、問われておいてその答えを未だに出していなかった。曖昧に放っておいた。――世界中の人々はこの島を楽園と呼ぶが、僕は楽園だからこそ居住しているのではない。ここに好きな人々が居るから、その力になりたいだけなのだ――そんな結論に纏めたまま、放置していた。 その回答は秘書が求める所とは違っているとも気付いていた。だが、それを判っていながら、これ以上悩み考えたくはなかった。 その答えを出してしまうのが怖かった。 心の中に吹き溜まっているある感情に気付いていなかったと問われたなら、嘘だった。しかしそれを直視してしまえば何か大切なものが崩れてしまうような気がしていた。 それは、先日行われた電理研からの会見を視聴しつつ「あの言葉」を口走って以降も、どうにか考えないようにしていた事だった。――「彼」が「紛い物」であるからこそ、この秘書からの問いの結論をも導き出してしまうと判っていた。進みかねない論理展開を、彼はどうにか押し留めていた。 しかし、今となっては、彼はその答えを導き出していた。 最早彼の前に、何ら躊躇は存在しなかった。 今まで守ろうとしてきたはずのものが悉く偽物で紛い物だったのかもしれない――そう悟った彼には、もう何も残されていなかった。 ――人工島が楽園なものか! 少女の悲痛に満ちた叫び声が、波留の心中に木霊する。 その響きを噛み締めるように、彼は瞼をゆっくりと伏せた。後頭部をソファーの背もたれの上に乗せ、口許から呼気を漏らす。長く吐き出されてゆく息が、顔に掛かっていた髪を微かに揺らした。 室内の空気は静謐だった。そんな中、彼はゆっくりと瞼を開いてゆく。天井を見上げる視界は高い。照明を必要としないだけの光量が全面の窓から注がれていた。 ――…久島を蔑ろにするこの島が、僕にとって楽園である訳がないのだ――。 窓の外には青い空と紺碧の海が広がっている。それを眺めている波留の視線が険しくなってゆく。 7月のあの原初の夜に自らが守った世界を眺めながら、波留はそのような思いに囚われていた。 波留の足元には灰色ぶち猫が纏わりついてきている。しかし彼は全くその存在を見ようとはしなかった。程好く柔らかい身体が当たるに 任せている。 スニーカーを履きジーンズ生地に覆われた両脚は、ソファーに腰掛けた状態で組まれている。その間をちょこまかと何度かすり抜けた後、その猫は波留の両足の隙間からひょっこりと顔を出した。頭にスニーカーの底が少しばかり当たっていても特に気にはしていない様子だった。 猫は窓の外を見据える。口を閉じたまま、眼を細め、喉を鳴らした。その髭がひくひくと動いている。 猫の瞳にも、外の光景が映し出されていた。 一瞬、流線型の存在が波間に姿を現し、すぐに消えた。 猫は確かにそれを見ていた。 |