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深海に位置する久島永一朗のプライベートルームの照明は、薄暗く保たれている。室内に「人間」が居ない限り、それが通常設定だった。 それでも、ここは元々は人間が居住していた部屋である。 統括部長と共にメタルの管理責任者との職務上電理研から離れる事が出来なかった「彼」は、いっそ電理研内部に住むことを選んだ。極めた立場に反し、その部屋には仮眠と着替えるためだけに戻る日々だった。多忙な技術職達が帰宅する口実と何ら変わらない。 プライベートルームに入ると執務室めいた部屋が存在している。そして更に奥にはまた別の部屋への扉があった。 それが寝室である。久島部長は全身義体ではあったが脳核のみは生身のままだった。その脳を休めるために、毎日の睡眠は欠かせなかった。 しかし、彼が倒れて以降、実はこの寝室は殆ど利用されていなかった。その必要がなかったからである。 彼の義体を受け継いだそのAIは、彼の脳核の生命維持も担っていた。しかし彼自身はAIである。車椅子やソファーに腰掛けたままスリープモードに入れば、そのまま脳核を休める事が可能だった。必ずしも横になる必要がなかったのである。 むしろ横になるならば、着替える手間が掛かってしまう。この部屋に引き篭もっていた只のAIがそんな手間を掛けるつもりはなかったし、彼を遠巻きに監視していた人間達にもそんなつもりはなかった。 今、彼は、その寝室に足を踏み入れている。 やはり薄暗い照明の中、彼はベッドの傍らに立っていた。それでもこの照明が灯されたのは、部屋の主が成り代わって以来だろう。 主にずっと使用されて来なかったベッドはきちんとメイクされた状態だった。白いシーツには皺も染みも見当たらない。 だが、彼はベッドに興味はない。彼が向き直っているのは、傍に設置されているクローゼットだった。 彼はその観音開きの扉を開け、中を覗き込んでいる。ハンガーがいくつも並び、そこには何着分かのスーツが揃っている。 それらの間に右手を差し込み、捲るように1着1着見ている。そしてその先には白衣と詰め襟状の電理研の制服の上着が何着か収まっていた。 収まっている衣服はどれもクリーニングを経ている。綺麗な状態だった。 これらの持ち主は全身義体であり、新陳代謝の機能は一切ない。汗を掻かなければ皮脂から垢が発生する事もない以上、内側から汚れる事は殆どなかった。 それでもあちこちを動き回り活動すれば、どうしても外部から微細な汚れを拾ってきてしまう。活動範囲が屋内のみならばまだしも、屋外となるとここは南国の島である。厳しい直射日光と、潮を含んだ海風に晒され続けてしまうものだった。 しかし、このクローゼットに収まっている衣服は全て、綺麗な状態であるようだった。少なくとも、それを眺めている義体はそう感じていた。 不意に、彼の電脳に電子音が響き渡る。次いで、自動的に電通ダイアログが立ち上がった。そこに公的アンドロイドの顔写真が表示され、音声が聴覚に伝わってくる。 ――部長代理から文書を届けるよう申しつかりました。入室しても宜しいでしょうか? その申し出を耳にしつつ、彼は電脳内の視界にある秘書タイプのアンドロイドの顔に視線を注いだ。 これはプライベートルーム前の扉に備わるコンソールに連動した電通機能である。 本来なら執務室側から応対すべきなのだが、奥の寝室側に部屋の主が移動していた場合には反応出来ない。そのために寝室側に移動した時点で、コンソールからの呼び出しが彼の電脳に転送されるようになっていた。こうする事で、例えば就寝中に何らかの異常事態が発生した際にも遠慮なく叩き起こせると言う訳である。 ともかく、今の義体はちらりとクローゼットの内部を一瞥した後に、入室許可を出した。 そのダイアログが閉じる間際、コンソールに開錠キーが送信される。扉の向こうにも誰かが入ってきたとおぼしき微かな音も聞こえてきた。 彼は服の間から右手を引き抜く。両手をクローゼットのそれぞれの扉に掛け、ゆっくりと押した。 木製の扉は軋みを上げる事もなく、妙な固さもなく、彼の動作に従い閉じてゆく。彼の両手が揃う頃には、扉もかちりと音を立てて閉じていった。 薄暗い室内に沈黙が落ちる。彼は僅かに俯いた後、踵を返して執務室への扉へと向かった。 |