「それは――」
 それでも敢えて、それを行う理由とは、何だろう。ソウタには容易に推測がつき、それを口に出そうとする。
 彼もまたグレーゾーンの捜査方法を渡り歩いた過去と実績を有している。彼にとってメタルは自分のフィールドではなく暴力行為に拠り危ない橋を渡り続けて来たが、技能は畑違いでも方向性には然程違いはないように思えた。
「…記憶を消した彼を囮として、何者かからの接触を待っている?」
「調査部の方針としては、おそらくはそうなのだろう」
 ソウタの推測に義体は軽く頷いた。同意の念を示す。
 ジャック・シルバーと言う名の少年は、7月のメディカルセンター占拠事件の重要参考人である。あの事件において実行犯グループは全員検挙していたが、彼らの依頼人についての情報は何ら得られていない。
 その情報を持っていたはずのリーダーは電脳自殺を図り、記憶を全てジャンク化してしまった。その復元は試みられていたが、結果は芳しくない。手詰まりと言っていい状況だった。
 その糸口を掴むために、犯人グループのひとりを泳がせる手法に至ったのだろう。
 無論、泳がせる事で彼らのグループに利を与えてはならない。となると、泳がせる犯人も選ばなければならなかったはずだ。それには司法取引が通常手段だろうが、今回はもっと確実な方法を採用したらしい。
 つまり「何も知らない」状態にしてしまった「犯人」を泳がせる。そうしておけば、たとえ依頼人やその他の仲間に接触された所で、妙な情報を流される恐れはない。後は調査部側が接触した相手を更に監視するなり、或いは確保するなりしてしまえば良いだけだった。
「――…ちょっと、待って下さい」
 そこで、ふたりの間に割り込んできた声があった。そこには黒髪の青年が立っている。
 彼は未だ着席してはいなかった。その姿勢のまま、ふたりの会話を訊いていた。彼が彼で、義体からの告白に衝撃を受けていた。しかしその衝撃を共有しているとおぼしきソウタが会話を深めてゆくに任せていた。
 が、遂にこの波留にも看過出来ない箇所が発生した。そこを質問する。
「彼の――人の記憶を、そんなピンポイントに修正出来たのですか?」
 メタルダイバーとして、波留が感じた疑問はそこだった。
 そんなに簡単に記憶を修正出来るのならば、例えばブレインダウン症例などは然程問題視されないはずである。記憶の復元が難しいからこそ、それは電理研が抱える重大な案件のひとつになっているのだから。
 一方で、脳の初期化と言う手段は確かに存在する。しかしそれは完全に記憶を消去する手段であり、消去領域の選択などの融通は一切利かない。しかも、その施術を途中で中断させた場合は、生命維持装置としての脳にも重大な障害が生じる可能性が高い。かなり危うい技術だった。
 ましてや、全身義体から取り出された脳核ならまだしも、生身に繋がったままの生脳に行うような施術ではない。これを機会としてあの少年を全身義体化したのならばともかく――そこまで恐ろしい事をしでかすような組織とは波留は思いたくはなかったし、前述のように初期化では今回のような改竄は出来ないはずだった。
 囮として泳がせるつもりならば、シルバーにはまともな生活を送れるだけの知識は残しておかなければならない。周囲から浮かないだけの人工島の知識も必要だろう。
 逆に、ふとしたきっかけで以前の自分を思い出されても困る。フラグとなりそうな記憶はきっちり潰しておく必要があった。
 だが、そんなピンポイントに記憶をいじれる手法など、あり得ない。治療目的ならば患者の協力を得られる事もあり、トラウマなどの記憶を消す事もあり得るが、今回はそのような単純な手法とは違うはずだ――。
 波留は自らの知識から、そう結論付ける。なのに調査部はそれを成し遂げてしまったらしい。一体、どういう抜け道を採ったのだろう?
 疑問を渦巻かせている波留を、義体はじっと見上げている。しばしの沈黙の後、静かに口を開いた。
「その件については、君の手柄だ」
「…は?」
 思わず、波留の口から呆けた声が漏れた。
 義体の言葉は彼にとってあまりに突飛過ぎた。何がどうしてそういう結論に至るのかと思う。理論的な整合性を重んじるAIの言葉とは思えなかった。
 身体全体から疑問を呈している波留を、義体はじっと見つめている。無感情な顔が無遠慮に青年に視線を送った挙句、言う。
「君は事件中に彼の記憶を全て抜いている。その全ての記憶を君は、データ形状で証拠として提出しただろう?」
 当然の事のように義体はそんな事を言う。それを訊いた波留は事実を認める意味で無言のままに頷き――そして、義体の真意に気付いた。
 結んだ口が再び半開きになる。その両目は徐々に見開かれて行った。そんな彼の表情の変化を、義体は只見ている。僅かに呼気らしきものを漏らした後、続けた。
「つまり、ジャック・シルバーの脳内記憶のマッピングは既に完璧だった。調査部はそれに基づき施術を行ったに過ぎない。彼らに大した技能は必要ではなかっただろうな」
 義体の口調は常に淡々としていた。如何なる重大な事実を告げようとも、その態度は一切変化を見せない。
「――僕のせいで…彼は…――」
 一方、呆然とした声が波留の口から漏れる。その瞳は見開かれ、喉には酷い乾きを覚えた。
 本来ならば不可能だったはずの施術を可能としたのは、自分が提出した証拠データだった。
 記憶を改竄するには、その記憶が脳内にてどう構成されているかを把握しておく必要がある。そしてその把握は、患者が余程協力的でない限りは不可能だろう。自らの脳と記憶を全て他者に曝け出すのだから。
 或いは、その記憶へアクセスしようにも、通常では電脳に実装されている防壁が妨害してくる。それをすり抜けて介入し、全ての記憶を抜いてしまう事など、並大抵のメタルダイバーには出来ない。
 しかし、あの時、波留はそれを実行し、成功させた。
 ジャック・シルバーの記憶を全て抜き、真実を探ろうとした。
 結果は然程芳しくはなかったが、それでも証拠の一部として調査部に提出している。そしてその記憶の全てを、調査部は波留が意図しなかった方向に利用したらしい――。
 ――アイリスだけではなく、あの少年も――僕のせいで酷い事になってしまったのか?
 無感動な義体に突き付けられた現実が、彼の心を苛んでゆく。それらは必ずしも彼の責任ではないのだが、その一端を担っているのは確かだった。自分が彼らに関わらなければ、こんな事にはならなかったのだから。
「ああ、君の手柄だな。おめでとう」
 対する義体は祝福の単語を発しつつも、その口調は相変わらず淡々としていた。何の感情も含まれていない。それが逆に皮肉めいた言葉として、他者には聞こえてきた。
 心にもない台詞を――波留はそう感じる。奥歯が音を立てた。
 つくづく人の心を逆撫でしてくると思った。しかしこの義体を動かしているのはAIである。人間に対して「思う所」など存在する訳がない。苛立ちを覚えるのは、自分の心が不安定だからだ――波留は一貫してそう考えた。
「人の記憶を良いように…これが電理研のやり方ですか」
 それでも、彼の心中の苛立ちはそのまま言葉を成した。それにソウタは反応し、何かを言いかける。しかしそれを遮るような声が、若者の隣から発せられた。
「今まで他者の記憶を存分に探り、時には奪ってきたメタルダイバーが、そんな事を言うのか」
 淡々とした言葉に、波留は言葉に詰まった。
 確かに、自分の事を棚に上げている。そう指摘されても彼には全く反駁出来ない。むしろ冷静なAIだからこそ、人間が抱くその矛盾は看過出来ないのだろうと感じた。自分の厚顔無恥さ加減を突き付けられた気分だった。
 白い壁で四方を囲まれた部屋は、淡い照明に照らされている。沈黙は部屋の人々の上から重苦しく圧し掛かって来ていた。
 少なくとも、生きた人間達はそう感じていた。
「――さて、私は君に報いたつもりだ。次は、君の番だろう?」
 この室内で唯一人間ではない人物は、静かにそう宣告してきた。テーブルを挟んだ向こう側の席を蹴り、立ち尽くしている人間を真っ直ぐに見上げていた。義体特有の紫の瞳は室内の風景を只写し取り、彼のAIに伝えてくる。
 AIからの視線を受けている黒髪の青年は、不意に足許が覚束無くなった。軽くよろめき、足踏みしてバランスを取り直す。椅子の足が彼の靴の踵に当たり、軽い音を立てた。
 バランスを崩した身体は反り返り、上向いた顔が天井の照明を捉える。その白い光が、彼にはやけに眩しく思った。
 その最中にも、強く注がれて来る視線を彼は感じていた。紫の瞳が放つ微細な光がまるで推進力でも持ち合わせているかのように、視線の先の彼に圧迫感を与えていた。
 その彼の方へ、波留は視線を向ける。途端、無表情な顔立ちに釘付けとなる。抗おうにも、視線を反らせなかった。
 「契約」を、反故には出来なかった。
 ――問答無用で意固地に突っ撥ねるだけの勇気が持てなかった。
 ようやく波留は首筋に力を込めた。そのまま横へ動かし、僅かにかぶりを振る。垂れた前髪が頬に当たる感触がした。
 そして彼は、のろのろと右手を上げる。胸の前から、その前方へと突き出した。
 それを迎え入れるように、眼前の席に着いた義体も右手を上げている。その掌を広げ、待ち受けていた。
 無言のまま、波留は義体と手を重ねた。
 一瞬後、微かな電子音が響き、掌の間から僅かに発光する。人間と義体の間に、互いの同意の元に接触通信回線が開かれた。
 波留は、自らの電脳に確保していたアイリスの情報とマスクの解除キーを送信する。電脳ダイアログが視界に浮かび上がり、表示されたプログレスバーが進行していた。相手側の受信環境も整っており、順調に情報は受け渡されてゆく。
 最中にも、波留は顔に突き刺さる視線を感じる。自らに紫の瞳が向けられ続けていた。その瞳には何処か昏い光が宿っていた。座っている人間を見下ろしている格好のため、波留には彼の表情は明らかではない。それでも瞳の印象が強く残る。
 不意に、背筋に寒気を感じた。波留は思わず、見下ろす彼の顔を直視した。腕を突き出し重なる互いの手が視界の一部を遮っているが、その先を見通そうとした。
 着座のままの彼は波留を見つめている。紫の瞳が真っ直ぐに人間を見上げて来ていた。
 波留は、彼の口許が僅かに歪んでいるのを見た。
 その口角は上がり、まるで笑みを浮かべているようだった。それも嘲笑めいた――。
 それは、照明が影を落として来ている事に拠る錯覚なのだろう。AIには感情は存在しない。ましてや、人格プログラムを持たないデフォルト設定のAIが、人間を嘲笑うような表情を作り出す訳がない。
 そのはずなのだ。
 思わず凝視した波留の視界からは、先程垣間見た笑みは消え去っていた。そこには無表情な壮年の容貌を持つ義体が、無言で手を伸ばしているばかりである。
 テーブルには、ふたりの腕が作り出す影が真っ直ぐに落ちている。
 ――波留には、深い沼に足を踏み入れ、囚われた気がした。
 
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