その瞬間、黒髪の青年は思わず席を蹴っていた。衝撃音と共に引き摺るような音が立つが、それらはすぐに虚空に吸い込まれる。
 波留は勢い良く上体を起こしテーブルに両手を突き、その場に立ち上がる。両手の掌をテーブルに広げて身体を支えつつ、若干前屈みに前を見た。
 青年の歪んだ顔が正面を見据える。その先には沈黙する義体が居た。青年とは対照的に、彼は平静を保っている。その紫の瞳がじっと人間を見上げていた。
 睨み付ける青年は、口の中で僅かに唸り声を上げる。その脳内では様々な感情がぐるぐると巡って行った。
 両目は徐々に見開かれてゆき、瞳が不安定に揺れてゆく。何も冷静に考えられない。その混乱を表すかのように、彼の口から言葉が漏れた。
「………何を、言っている…――」
 退路を断たれた。
 先手を打たれた。
 ――まさか、ここまでするかと思った。
 久島が有していた権限をそのまま委譲された「彼」が、人間同様に振る舞うとすれば、こうなる可能性もあったのか。
 そして、自分が如何に久島の好意に甘えていたのかと気付いた。
 あまりに曖昧な気分を根拠に、あの事務所に居座っていた自分が甘過ぎた。彼は――「彼」も、いつだってこの場を取り上げる事が出来たのだ。
 波留はゆっくりと顔を俯かせる。前髪が目許に掛かった。その奥で彼は目を細め、瞼を伏せた。何かを噛み締めるように、きつく目を閉じる。
 自分の側に、対抗手段は最早遺されてはいない。彼はそう悟った。
 正確にはまだまだ遺されているのだが、それを成すとすればほぼ間違いなく犯罪者の身分に落ち着いてしまう。そうなれば抵抗する正当性は喪われる。逆に、守るべきアイリスに迷惑が掛かるだろう。
 或いは勝てないにせよ、本気で法廷闘争に持ち込み、負けないように結審を引き延ばす手段も考えられない訳ではない。しかしそれは事態の泥沼化を引き起こす。あくまでも別の手段を講じるまでの時間稼ぎにしかならないし、その「別の手段」とやらをまず思いつかない。そして、相手側が「別の手段」を講じてこない訳がなかった。
 聡明であるはずの波留は懸命に脳をフル回転させてみるが、反撃の糸口は見つからない。頭に血が昇っている事は否定出来ないが、それを抜きにしても何も考え付かなかった。
 冷や汗がゆっくりと額を伝い、テーブルの上へと一滴垂れ落ちる。俯いた波留は、その水滴を視界に入れた。額から伝わる微妙な感覚に、彼は口を開いた。そこから、深い吐息が漏れてゆく。それと合わせて落ちてゆく肩を、彼は自身に感じた。
 僕は――負けたのか。
 屈したのか。この紛い物に。
 今の波留が感じているものとは、敗北感に他ならない。彼にもその自覚はあった。両目を見開き、唇に歯を突き立てる。痛いまでに噛み締めた。その一方で、視界の両脇に垣間見える両腕がぶるぶると震えているのを、彼は何処か他人事のように感じていた。
「――…あなたを、信じますよ…」
 俯いたままの波留の口から、乾いた声が聴こえてくる。実際に彼は喉の奥に渇きを覚えている。自らの声に僅かにしわがれた響きを感じていた。
 しかしそれは、客観的には差異を感じさせない代物である。彼自身の心中に湧き上がる苦々しい想いが、そう聴こえさせているに過ぎなかった。
 波留の向かい側ではソウタが身じろぎしていた。対照的にその隣の義体は微動だにしない。
 だが、波留自身は彼らの様子を視界に入れていない。俯いたまま右手をテーブルから引き剥がし、持ち上げた。その手は震えたままゆっくりと胸元へと導かれてゆく。そろそろと近付いた挙句、急に勢い良くシャツを掴んだ。
 握られてゆく指が、白いシャツに皺を寄せる。その指が徐々に血の気を失い、節々から白くなっていった。
「――ソウタ君。――いいえ、次期統括部長」
 低く蚊細い声が、俯いた青年の口から続いた。
 ――…嘘つきなんか、消えてしまえ。
 あの別れ間際にアイリスに突き付けられた悲痛な声が、波留の脳裏に響いてゆく。
 
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