礼儀正しい一礼を残し、波留はエリカ・パトリシア・タカナミの病室を後にする。
 地上区画に位置しているこのフロアには訪問者は少ない。全般的にセキュリティは整っている病棟ではあるが、更に秘密の隠匿を可能としている事になる。その方が、彼女にとって都合がいいはずだった。
 黒髪の青年の眼前で、病室の扉は閉ざされた。壁際に設置されているコンソールにランプが点滅し、閉錠動作は一瞬で完了する。そのランプにも波留は軽い一礼を見せた。そして踵を返し、扉に背を向ける。
 スーツ姿の彼は姿勢良く一歩を踏み出した。後ろに結んだ長髪がふわりと揺れた。前髪が掛かる顔は、無表情そのものである。
 手荷物を持たない彼は、両手を自然に振りながら歩いてゆく。スラックスやジャケットのポケットに手を入れて歩こうとはしなかった。良く磨かれた革靴が白いタイル地の廊下を踏み締める度に、堅い音が僅かに漏れる。その音が響いたにせよ、彼以外にこのフロアを歩く人影は今は見られなかった。
 無言のまま、波留は廊下を歩いてゆく。視界に流れる他の病室の扉や朝陽が射し込む窓には目もくれない。正面を見据え、階下に降りるためのエレベーターを目指していた。
 やがて、彼の視界が開ける。エレベーターのエントランスがそこにあった。早朝にも通過した広場である。そこに一歩を踏み入れた。
 その時、彼の耳に声が届いた。
「――マスター」
 思わず波留は足を止めた。それは聴き慣れた声であったし、自分をそう呼ぶ存在を、彼は独りしか知らない。しかし何故ここで彼女に呼び掛けられるのか?
 彼は反射的に視野を見直すが、そこに電脳ダイアログはポップアップしてきてはいない。とするとこれは電通ではなく、リアルに聞こえてきた声と言う事になる――。
「おはようございます、マスター」
 もう一度声がした。そのリアルの方角を、波留は見る。するとそこには黒髪の女性型アンドロイドが畏まって立っていた。
「…やあ、ホロン」
 突然現れた存在にも波留は動揺は見せない。いつものように微笑み掛けた。彼の前に立つのは公的アンドロイドであり、電理研所属の秘書型を表す制服を纏っている。
「御無沙汰しております。お元気そうで何よりです」
「ああ、リアルで会うのは久し振りだったね」
 波留は朗らかに言う。電通では言葉を交わしていたからその意識はなかったが、確かに「御無沙汰」と言われたならその通りだった。
「君がどうしてこんな所に?」
 それは素直な疑問であったし、彼は世間話のように振っていた。
 ここは電理研直属の医療施設とは言え、電理研本体に所属するアンドロイドが彷徨うような場所ではない。しかし彼女がここに居ると言う事は、何らかの命令を受けて訪問しているからなのだろう――。
 そこまで推測した時点で、波留は気付いたような顔をした。照れたように笑い、頬を指で擦る。
「…いや、電理研部外者に答えてはならないような案件なら、別に構わないよ」
 波留はホロンにそう告げた。彼はホロンのマスターであり、多少の無理な命令を利かせるだけの権限は持ち合わせている。マスター権限は絶対であり、彼女が当面仕えている電理研の命令よりも波留の言葉は上位に位置するものだった。
 それ故に、彼は不用意に命じるべきではない。このままではホロンは彼に、聴かなくてもいい事を洗いざらい話してしまうだろう。そして今、彼はそこまでの情報開示を求めてはいないのだ。ならばあらかじめその要素を潰す命令を下しておくべきだった。
 波留の前に立つホロンは微笑を浮かべる。秘書用プログラムの対人機能がそうさせているのだろう。先程まで波留が対面していた人工島プリンセスの若かりし頃を外見上のモデルとした彼女の形良い唇が動いた。
「――マスターに御用件がございます」
「…え?」
 それは波留にとって、とても意外な言葉だった。一体何の用があると言うのか?
 そしてその用件とは彼女自身が持ってきたものではないだろう。使役されるアンドロイドには自由意志は存在しない。彼女をここに遣わした人間が居るはずで、その人間が彼女に用件を託しているのだろう――波留はそう考える。
 しかし、自分に用件がある人間とは一体誰だろうか?素直に考えれば、彼女の所属先からなのだろうか――。
 ホロンはゆっくりと瞼を伏せた。軽く頭を下げ、波留への恭順の意を示す。そして申し入れた。
「部長代理と――統括部長が、マスターにお会いしたいとの事です」
 アンドロイドが発したその言葉に、波留は身体を硬直させた。直立不動のまま、息を軽く吸う。彼の思考は瞬間、立ち止まった。しかしそれもすぐに解除される。とりあえず、引っかかった単語をそのまま口に出した。
「…統括部長?」
「はい」
 短い問いにホロンは微笑んだまま頷く。波留の言葉を肯定した。その態度に、人間の青年は僅かに眉を寄せた。
 ――彼は、人間ではないじゃないか。
 君と同じ、AIだぞ?
 なのに――そうやって仕えているのか?
 波留はそう問い質したくて仕方がない心境に陥った。しかし、それを済んでの所で思い留まる。
 ホロンにその過ちを指摘した所で、どうしようもない。ホロンに「彼をそう扱え」と指示した「人間」が居るのならば、彼女はそれに従うだけなのだから。
 そのように考えを纏めた波留は微笑んだ。そして、ホロンに穏やかに語り掛ける。
「…判った。僕は、どちらに向かえばいいのかな?」
「この病棟内に応接用の部屋があります。両名はそこでマスターをお待ちしております」
 秘書然とした対応を行うホロンのその言葉を、波留は意外に覚える。その違和感をそのまま口にした。
「ここにわざわざ彼らが?」
 ――僕に電理研に出頭しろとか言い出すのかと思った。波留の心中にはそんな思いがよぎっている。
 有する権力を誇示するには、相手の方に自分の元へと出向かせるのが順当な行為だと波留は考えている。しかし、どうやら今回は違うらしい。
 もしかしたら――と、考え直す。
 ここには書記長が入院しているのだ。彼女への見舞いついでに、自分との面会も済ませてしまおうと言う事なのかもしれない。
 或いは、彼女のブレインダウン症例を把握し対処したのは、電理研だった。それも波留へ極秘に依頼を寄越したのは「久島永一朗」である。それを思えば、ホロンが述べた人物達も部外者ではない。書記長に行うであろう面会は単なる見舞いに留まらず、今後の事などの話し合いに至るのかもしれない。
 そこまで考えを進めた段階で、波留はホロンに頷いた。この推測が正しいのならば、彼らは自分との面会の後には書記長とのそれが控えている。時間を無駄に費やす訳には行かなかった。
「――判った。行こう」
「ありがとうございます」
「まあ、ここまで来たついでだしね」
 自身に向かい深く下げられた女性型アンドロイドの頭を見下ろしつつ、波留は苦笑と共に答えていた。
 これから電理研まで呼び付けられるのならばともかく、相手は同じ屋内に居るのだ。その状態で、波留の側から断る理由を作るのはかなり厳しいだろう――断る前提を想定するのはまた違うのだろうが、彼の複雑な心境がそこに見て取れるのかもしれない。
 話が付いたため、ホロンは波留に「どの応接室にて待っているのか」、その情報を受け渡した。わざわざ電通するまでもなく、口頭にて済ませられる内容だった。ある階の何号室――その程度の情報だった。
「――それでは、私はこれで失礼致します」
 やがて、ホロンは波留に深々と頭を下げてそう告げる。その退出の言葉を、波留は意外に思った。
「…君は僕を案内しないのか」
 曲がりなりとも自分は彼女のマスターである。なのに自分を放って何処か別の所へ行ってしまうとは、余程の事があるのだろうか?例えば、既に別件の予定を入れられているとか――。
「申し訳ございません。別に申し付けられた事がございまして…」
 果たしてホロンは顔を上げる。恐縮しきった表情を浮かべてそんな事を言い、再び頭を下げた。謝罪の意を示す。
 その態度に波留は苦笑する。右手を挙げ、ひらひらと振った。彼が想定した通りの理由が提示された今、彼女を咎める理由は何もなかった。
「ああ…いいよ。道順は判ったから」
 電理研本体にてあちこちの施設に向かう際とは違い、この道順は単純だった。生脳で覚え切れない順路ではない以上、彼に道案内は必要なかった。
 そうやって波留はホロンを解放する意思を示す。それにホロンは微笑んだ。再び辞去の挨拶を口にして一礼する。それで別れの儀式は終わりだった。
 白基調の秘書の制服が翻る。立ち振る舞いも完璧にプログラムされているアンドロイドが立ち去ろうとしているその時、波留には気付いた事があった。それをそのまま、彼は口に出す。
「――何だい?その紙袋は」
 その言葉に、ホロンは足を止める。振り返り、マスターへと向き直った。そして、微笑み答える。
「折り鶴です」
 明示されたその単語に、波留は面食らった。何故そんなものを彼女が持っているのかと思う。
 が、ここは医療施設である。入院患者は何もタカナミ書記長のみではない。もしかしたらその中の誰かへの見舞いの品にでもするつもりなのだろうか?――いや、その場合は千羽鶴の形態にしておかなければ変だろう――。
 波留の脳裏にそのような考えが渦巻いてゆく。しかし、彼はそれを半ばで打ち切った。
 いくらホロンは自分をマスターとするアンドロイドとは言え、今は共に生活してはいない。そんな彼女の行動全てを把握しようとするのは不可能だし、そんな行為に意味があるとは思えなかった。
 ともかく「別の用事がある」ホロンをいつまでも拘束しておく訳にはいかない。僕に会いたいとの相手も待たせている状況だろう――そんな考えを抱きつつ、波留は独りエレベーターに乗り込んだ。
 
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