「彼が…ジェニー・円さんが…」
 波留の口調は何処か空虚なものとなっていた。タカナミへの問いかけを諦めたのか、それとも別の心境に陥ったのか。ともかくぼんやりとした声が、その実名を発する。
 そしてタカナミは、その挙げられた名に眉を寄せた。その名を挙げた事で、波留の感情が一点に向けられるのではないかと思った。
 昨日、流出した記憶から偶然その事実を知った彼は衝撃を受け、怒りを覚えただろう。そしてその衝撃の大きさから感情は許容範囲を超え、彼自身何を感じているのかすら判らなくなっているのだろう。
 しかし彼は今、怒りの矛先が向かう「真犯人」の名を挙げた。そうなれば、空虚な感情は一気に爆発を見せるのだろうか?それは好ましい事態なのかそうではないのか、タカナミには判らなかった。
「――あの男が――久島を――」
 そう続けた波留は、深く俯く。前髪が被さり、顔を覆い隠した。ベッドの上のタカナミには、彼の表情が垣間見えなくなった。声の調子自体は一向に変化を見せていない。
 自らの胸元を掴む彼の右手には力が込められ、ぶるぶると震えている。そして口許は笑うように歪み、その唇の端に歯が立てられた。
 タカナミには、その震えは垣間見えている。爆発しようとしている感情を懸命に封じ込めようとしているのかと思った。或いは、別の意味を含んでいるのかもしれないとも考えた。
 ともかく波留は不意に肩を大きく揺らした。口を解放し、音として聞こえるまでの溜息を深く漏らす。
 そして彼はすっと顔を上げた。揺れる前髪をそのままに、正面を向く。胸元の右手を下ろすと、シャツには皺が痕跡として残されていた。
 向き直った波留の顔は穏やかではあるが、真面目な顔をしていた。その目元にも口許にも笑みが浮かんでいない事に、タカナミは気付いた。
「あなた――あの事件の最中にそれを判っていながら、一貫して彼を告発しなかったのですか?」
 新たに問い掛ける波留は、相変わらず声を荒げない。表情から笑みが消えても、それは変わらなかった。
 しかし問う内容は、今まで以上に踏み込んだ内容になってきている。答える側に一層言葉を悩ませる代物であり、弾劾だった。
 久島部長を誘拐した――正確には誘拐されたのは彼の脳核だが――犯人を、久島の身柄確保と同時に評議会も電理研も捜査していたはずだった。しかし、この書記長はあの1日の最中に、その手がかりを握っていた事になる。明確な証拠は何処にもないが、実際に「真犯人」を呼び出して問い質し、言質めいたものを得ていたのだ。
 それを何故、明らかにしていないのか。
 物的証拠や客観的な証言がなかった以上、あの時点では動けなかったとの擁護は可能かもしれない。ではあれから4ヶ月以上も経過した今でも尚、彼は捜査線上に居ないのか。あろう事か、別人に全ての罪を覆い被せてこの一件を終わらせてしまっているのか――。
 波留が問いたい事は、つまりはそう言う内容なのだろう。少なくともタカナミはそう思ったし、客観的に鑑みても彼女の結論の通りだろう。
 その動機は、犯罪絡みの真実を語らない権力者への公憤や義憤からなのだろうか。それとも、親友を害されたと言うのに真相を隠された私憤に拠るのだろうか。
 おそらくは建前は前者であり、本音は後者なのだろう。タカナミはそう確信する。
 しかし彼女は理解している。この波留真理と言う人物は、それら全ての理由を行使する権利を持ち合わせている事を。
 かくして人工島評議会書記長は、以上のような事を考えつつも髪の毛の一房に右手を伸ばし、いじっていた。
 そして彼女は波留を見据える。レンズに透過された彼の瞳を探るように見やった。彼女自身は硬い表情を浮かべ、形の良い唇が動いた。
「――…人工島の支配者が人工島の支配者を暗殺したなどと…公表する訳にはいきません」
「だから、別人に全ての罪を着せたと?」
「あの評議員は紛れもない実行犯です。自身、黒幕が誰なのかを知りませんでした。あのシナリオは、誰にとっても都合が良かったのです」
 波留からの明確な問い掛けに、タカナミはそう答える。その表情も口調も、堅い。言い訳めいている自覚は持ち合わせていた。しかし、それが彼女にとって、守るべき建前だった。
 件の評議員は、久島を奪還すべく真相を懸命に追い求めた蒼井ソウタによって殴り倒された直後、彼から通報を受けた評議会の捜査組織に拘束された。その時点では既にソウタはその場を離れていたため、評議員への尋問その他取り調べは評議会が全て管轄した。
 タカナミは、書記長権限を用いてその様子を閲覧している。表向きは真相を知りたいがためだったが、その実状はいささか「真相」の意味合いが異なっている。その評議員が「何処まで知っている」のかを確認し、もし人工島に著しく不利益を与えるような証言を成すならば対処しなければならなかったからである。
 あの評議員は、タカナミが独自に悟った「真相」を知らなかった。
 彼個人が直接久島を襲って拉致した訳ではないだろうとは証言でも確認出来たが、その実行犯はその道のプロであり思想犯でも何でもなさそうだった。彼の自白と状況証拠からは、そう読み取る他なかった。
 プロならば、仕事を終えた今、既に島を後にしている可能性も高い。いくらテロリストの片棒を担いだとは言え、島外まで一犯罪者の足取りを追うだけのリソースを割く余裕はない――捜査当局は、そう言う結論に至っていた。或いは、タカナミがそう至らせるよう、示唆した。
 そうやって、書記長はこの一件を幕引きした。ジェニー・円を犯罪者の身分に堕とさないよう、結果的に彼女は尽力した事になる。しかし円は気象分子の暴走の責を取り、人工島を去る道を選ばざるを得なかった。
 ふたりは書記長と諮問委員長と言う政敵同士の関係ではあった。が、この島から出て行く立場の人物に追い討ちを掛ける必然性は、少なくとも書記長の側にはなかった。島の平穏と引き換えに過去の政敵を討ち取るのは、彼女にとってあまりにもバランスに欠けた行為だった。
 やがて、タカナミは髪から手を下ろした。横たえた太腿の辺りに両手を置き、真っ直ぐに波留を見つめる。眼鏡の奥の瞳には強い光が宿っていた。そこに込められた信念が垣間見える。
「卑しくも、私にはこの島を預かっている立場があります。どんな手段を用いてでも、この島を守らねばなりません」
 書記長はきっぱりと言った。開き直りとも解釈される台詞ではあったし、事実その通りだと彼女自身認めるつもりだった。
 だが、自分はそう言い切らなければならない。波留からの弾劾を突っ撥ねなければ、今までの偽りが掻き消えてしまう。そうなれば、島に構築されつつある新たな秩序が崩壊してしまうではないか――その決意を込めて、彼女は態度を決めた。
 決して声こそ荒げてはいないが強硬な態度を示す書記長を前に、波留は瞼を伏せた。穏やかな表情のまま、首をゆっくりと横に振る。
「あなたのお立場は重々承知しておりますし、僕はそれを尊重するつもりです。ですが――」
 病室にて静かに響く青年の声は、そこで一旦途切れた。右手を胸の前に持ち上げ、何かを示唆するような仕草を見せた。そして彼は、言い掛けた台詞を全て、口に出した。
「…ですが…――そんな立場など持ち合わせていない僕は、一体どうすべきなんでしょうね?」
 放たれたその台詞に、タカナミは眉を寄せる。僅かに顔を俯かせると、眼鏡への光が屈折して彼女の目元を隠す。
 予想はしていた反応だった。自分がこのように頑なならば、相手もまた頑なだろうと、彼女はそう思っていた。互いの立場は決して相入れないだろうと危惧していた。
 そう予想はしていたが、実際にその態度を取られてしまうと、タカナミに出来る事は著しく減少する。光を弾くレンズの奥で、彼女は視線を落とした。
 そしてすぐに、顔を上げる。凛とした表情を、訪問者へと向けた。
 
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