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翌日早朝には、エリカ・パトリシア・タカナミは体調を回復していた。 しかしブレインダウン症例を引き起こした事は重く受け止めなければならない。事後の検査を綿密に行った上で、1日は安静にしておくべきとの診断がなされていた。 そのため、回復した彼女は未だに病室の人である。職務上早く動きたいのは山々だが、医師の申し出を否定は出来なかった。 電脳のトラブルである以上、その電脳を用いた作業も不可能である。紙媒体やペーパー型モニタを用いて、今の時代で言う「アナログな決済」を行う他なかった。それでもその手法に切り替えて持ち込まれる仕事も多く、書記長と言う立場の多忙さと重要さを如実に表現していた。 そんな状況下において、彼女の元に来客が訪れていた。 アポイントが無かったために、秘書任務を果たしていたタイプ・ホロンはその来訪を丁重に断ろうとしていた。 しかし当のタカナミがそれを知り、招き入れるに至っている。同時にしばしの人払いをアンドロイドに求め、それを了承させていた。 書記長の前に現れたのは、黒髪のメタルダイバーだった。 今日の彼は青系のスーツを纏い、きっちりとネクタイを締め、長髪を後ろに結い上げている。髪型からして普段の書記長が会うような人種とは全く違うのだが、それでも今日は小綺麗な格好だった。 先日彼の事務所を訪問した際とは大違いの印象を、タカナミは受ける。あの時も厭な印象を受けた訳ではないのだが、あの場では爽やかながらも普段着めいた格好で訪問を受け入れられたのだ。今とは全く異なった印象だった。 ともあれ、どんな格好であったにせよ、彼女が波留真理の来訪を受け入れない理由はなかった。 むしろ、自分の方が後日改めて彼の事務所を表敬訪問するつもりだったのだ。何せ彼こそが、ブレインダウンした自分をサルベージしてくれたダイバーと聞かされていたのだから。命の恩人と言う奴を無碍には出来ない――人間としても、政治的立場としても。 そんな心境のまま、タカナミ書記長はベッドの中から波留を出迎えていた。アナログ作業で公務を行っていたために上体は起こしているが、一応安静にしておかなければならない身の上だった。だが、病院服で横たわっている状態であっても、眼鏡は外していない。まるでそれが拘りであるかのようだった。 「――こんな格好で失礼します。波留真理さん」 「いえ。お大事になさって下さい」 お互いにこやかな態度のまま、会見は始まっていた。そしてタカナミは礼の言葉を述べ、波留はそれを受け容れる。儀式めいたやり取りが続いた。 「――ところで、私のブレインダウンの原因は掴めたのでしょうか?」 「…いえ」 話の流れでそう問われた波留は瞼を伏せ、首を横に振った。 「それは僕の仕事ではありませんでしたので」 「あら…依頼内容に含まれなかった仕事はなさらないのですか。意外にビジネスライクでいらっしゃるのですね」 タカナミの感慨深げな感想に、波留は曖昧に笑う。彼の言葉は嘘ではない。仕事内容に含まれない以上、この件については調べるつもりはない――たとえ、手掛かりめいたものを掴んだにせよ。 それに、今の波留にとって、そこは問題ではなかった。そんな話をするために、彼はこの書記長の元を訪れたのではない。その主題を、波留は持ちかけようとする。 「――ところで、僕はあなたに謝罪しなければならない事があるのです」 「あら、何でしょう?」 そんな波留の声に、タカナミは興味を持ったようだった。微笑みを絶やさないまま尋ねる。 「あなたの意識固定の作業の一環ではあったのですが…あなたの記憶を一部垣間見てしまいました。つまり、所謂プライバシーの侵害という奴ですね」 困り顔の波留が最後に口にした表現とは、あまりに端的に過ぎた。さしもの書記長も、笑顔が凍る。故意ではなかったにせよ、あまり気分が良くない告白である。しかもどんな領域の記憶を見られてしまったのか――。 「それは…ちょっと困りますね。治療の一環だから仕方ないのかもしれませんが…」 それでも、後述した理由に拠り、タカナミは声高に怒る事も出来ない。懸念を提示するに留めた。普通の患者ならば、多少は詰る言葉を発してもおかしくない告白ではある。しかし、彼女は自制する。自らの立場がそうさせていた。 「何でしたら、秘密厳守の覚え書きでもしておきましょうか?」 波留の申し出に、タカナミは顎に右手を当てる。しばし思惟に落ちた。しかしそれも数秒に終わる。彼女はすぐに口を開いた。 「まあ…メタルダイバーの方々にはそれは絶対的な原則だと訊いています。わざわざ書面を残す必要はないかと」 秘密を握ったからと言ってそれを横流しするようなダイバーは、いずれ悪評が立つものである。その話が喧伝されてゆけば、そんなダイバーに仕事を寄越す人間など居なくなる。 不用意に秘密を暴露するなど、結果的に自分の首を絞める行為なのだ。まともなダイバーなら、そんな事態を避けるものだった。 だから、敢えて但し書きなど残さない関係もあり得た。そうやって相手側からの信頼を勝ち得ておくのだ。但し書きを交わす事自体「私はお前を信頼していない」と宣言するも同然なのだから。 波留は肩を揺らした。溜息を漏らす。表情も緩和し、緊張感が消え去った。ほっとした表情のまま、苦笑気味に言う。 「そう仰って頂けると、僕も幾分気分が楽になりました。書記長という立場の方の記憶となると…その、結構重いものも見受けられたので」 「仮にそれが何処かに漏れたら、私はまずあなたを疑えばいいのですね」 笑みを浮かべてタカナミはそんな事を言う。しかし彼女自身、あまり笑えない冗談であるような気がした。 ともあれ、相手側からの告白に、彼女は気を許す。秘密を握った以上、隠し通して機会を見て行使してくるのが上手いやり方と言うものだ。しかし、この波留と言うメタルダイバーはその有用なカードを自ら放棄したのだ。この時点でタカナミは、彼を信頼していいと思った。 書記長は瞼を伏せ、溜息をつく。心を落ち着かせた後、微笑を浮かべて口を開いた。 「――…一応把握しておきたいのですが…あなた、私のどんな記憶を御覧になったの?」 秘密を厳守してくれると口約束してくれたとは言え、漏れた秘密が何だったのかを知っておくに越した事はない。不測の事態でそれを見られてしまった自分はその開示を求めてもいいはずだとタカナミは思い、その質問を投げ掛けた。 「…いやあ…」 問われた波留は苦笑を浮かべる。首の後ろに右手を当て、何処か照れたように俯いた。 「これ、言ってもいいんですかね…」 「仰って下さらないと、私には判りませんわ」 奇妙な波留の反応にも、相変わらずタカナミは微笑んでいる。心中はどうあれ、顔には笑みを貼り付かせたままだった。普段通りの、ある種のポーカーフェイスを崩さない。 そんな書記長に、青年は苦笑交じりに俯いたまま、言い掛けては逡巡した挙句に、ようやく告げた。 「うーん………恋愛関係――とだけ申し上げておきます」 「…そうですか」 タカナミは口を噤んだ。その一言だけで、彼女としては何を見られたのかを把握出来た気がした。 そして何より、波留がここまで照れる素振りを見せるのだ。赤裸々な恋愛模様を見せられたから――何も、それだけではないのだろう。言ってしまえば赤の他人達の恋愛を垣間見ても、普通の大人の男はそこまで酷く動揺はしないだろうから。 つまり、波留が苦笑を浮かべる他ない態度を見せているのは、それだけの事情があるはずだった。例えば――赤の他人ではなかったとか。相手の男が、知った顔だったとか、そう言う可能性を思わせる。そしてタカナミの記憶に残る「恋愛関係」と言えば、正しく波留の知り合いとの関係なのだ。 ――現書記長と現電理研部長代理とが、過去に恋愛関係を持っていた。 その事実が一般に知れたならば、相当なスキャンダルになるだろう。その関係は既に終わってしまっていたとしても、扱いは変わらないだろう。 どちらも独身の成人である以上、不義めいた誹りを受ける謂れはない。しかし、彼らは単なる一個人ではない。それぞれに組織を背負う立場を担っていた。そこに特別な関係が介在していたと勘繰られてはたまらないものがある。そう言う観点から、決して漏れては困る情報だった。 だが、それを知ったのがこの波留真理と言う人物だったのは、救いだった。何故なら波留はソウタの友人である。その彼が、若き友人を苦境に立たせる事になるような告発をする訳がない。 タカナミはそう信じた。信じた故に、波留が握った秘密を不問に処す事にした。 |