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その時、彼の心に、また別の声が飛び込んできた。 ――書記長に、お願いしたい事がございます。 その声を耳にした瞬間、波留は瞠目した。はっと顔を上げ、前を見据える。 咄嗟に、かざす掌に意識を集中した。今まではタカナミの記憶の再生が流れ込むままにしておいた。しかし今の彼は、その記憶へのアクセスを行っている。流れ込む記憶の細部を探ろうとした。 それは書記長のプライバシーを尊重し、今まで避けていたはずの行為である。だが、今の彼はそれを敢えて行おうとしていた。その声に自らの意識が引き寄せられたからだ。 今まで垂れ流されてきた書記長の記憶は、波留自身とは何ら関係がない。しかし、これは違う。彼はそう判断した。 眼前のゲートに光が走る。かざす右手が光に飲み込まれ、波留は視野を一瞬失った。 その視界はすぐに開ける。しかし、そこは今までとは違い、水に満たされた空間ではない。 何らかの会議室らしき場所だった。広い円卓が存在し、それを囲むように椅子が並ぶ。だがそこに腰掛けている人間の姿がない。空いた椅子の並びを視線で走査してゆくと、ようやく誰かが座っていた。 ――気象分子の散布を延期して頂きたいのです。 再び声がする。先程聴いたものと同じ男性の声色だった。 波留が行き当たった視線の先には、壮年の男が居た。淡色のスーツ姿の生真面目な印象は変わらない。彼は、波留にとってはあまりにも見慣れた人物であり、最早動いている姿を見る事はないと思っていた。 その彼は、波留を見ている。義体特有の紫がかった色合いの瞳がじっと視線を注いでいた。何かを訴えかけるような真剣な印象を湛えている。 その視線を受け止める波留は、懐かしさを感じるより、まず身構えた。彼が真剣な論議を始めようとしているのならば、こちらも心構えが必要だろうと思ったからだ。それは50年前から染み着いた、反射的な行動だった。 ――理由をお聞かせ願えますか? 不意に、今度は自分の方から女性の声が響いた。波留はその声の主を探そうと振り返るが、人間らしき姿は見当たらない。 周辺を見回してみると、円卓には後ひとり、席に着いている。黒コートの厳つい印象を持つ男が無言で発言者の方を見やっている。彼も波留にとっては初対面ではない人物だった。因縁浅からぬ関係だとも言い換える事が出来る。 そして円卓の周辺には更に取り囲むように、モニタらしきものが並んでいる。そこには人間の顔写真が表示され、それぞれにどよめきめいた声を上げている。 先程の声はタカナミ書記長のものだった。つまり、ここは彼女の記憶の内部なのだろう。波留がアクセスした記憶が再生されているのであり、タカナミ主観で推移してゆくと思われた。 ならば、波留の立ち位置はタカナミそのものに落ち着いてしまっているのかもしれない。彼女自身の姿は一切視認出来なくとも、おかしな事態ではなかった。 そして、この記憶とは――。 この円卓の風景と、出席者。更にはこれまでの会話内容から、波留には充分に類推が可能だった。 ――…臨時の評議会でね。現在の地位からの降格もあり得るかもな…。 あの日、検査の後。外のベンチにて、そんな事を告げられた。そうやって彼は後ろ姿で手を振り、それが彼を見た最後となった。少なくとも、まともに生きていた彼を見たのは、それが最後だった。 波留の脳裏には悔恨の念と共に、その記憶が刻み込まれている。 ――人工島入植20周年式典に向けての臨時評議会に出席した。その場で、気象分子プラントの稼働延期を提案した。 或いは、彼の記憶を引き継いだと言うあのAIは、そんな証言をしている。あのAIはその詳細は述べなかったが、正しくこの光景こそが件の「臨時の評議会」なのではないだろうか? ならば、この光景は波留が見た「最後の姿」よりも後の時間軸のものとなる。他者の記憶を介しているとは言え、久島のこの姿を見られたのは望外の事だった。だから、波留は黙り、記憶の再生を見守っている。 ――現在電理研が調査を進めている案件との因果関係を確かめたいのです。 ――それは、地球律と呼ばれる現象についてですか? ――…そうです。 波留の側に居るはずの書記長はさらりとそう問いかけ、久島は若干口篭もった末に頷いていた。特に表情に変わりはない。しかし、書記長からその言葉を持ち出されたのは意外だったのだろう。 それは波留も同様だった。何故彼女がこの時点で既に「地球律」を知っているのだろう。事が起こる以前だと言うのに――そんな疑問を抱いたが、ふと思い出した。 書記長が波留の事務所を初めて訪れたのは、この臨時の評議会の直前だった。 その時書記長は波留をメタルダイバーとして勧誘してきた。そして波留はそれを固持している。その際、久島との研究として「地球律」の事を軽く話したのだった。 つまり、波留自身が書記長に「地球律」を吹き込んでいた。そして書記長は久島の言い分に、一定の理解を示したようである。 ――もしかして。 …僕が、この臨時の評議会の流れを変えたのだろうか?当時には、そんな意識もなかったのに。 あれから4ヶ月が経過しようとしている今となって、波留はそんな事を思った。 突然光が走り、風景が一閃する。 どうやら再生される記憶が切り替わるらしい。波留はそう認識し、そのまま佇んでいた。一瞬失われる視界を気に留めない。 すぐに彼の元に視界は戻ってくる。しかし、一見して風景は変わっていない。先程の円卓の会議室のままだった。 その風景に、波留は目を瞬かせる。もしかしたら先程の記憶の続きなのだろうかと考え直した。 そこに男の声が響き渡った。 ――久島君の姿が無いようですが。 波留は顔を上げた。その声を発した人間の方を見る。すると、黒コートの男が円卓に着いている。彼は波留の方――つまり書記長に視線を注ぎ、発言していた。 ――異議の提唱者が欠席である以上、気象分子プラントへの決議は取り下げても宜しいのでは? 佇む波留は、彼の言葉を聞き流していた。その言葉の内容よりも重要な事を確かめたかったからだった。 先の発言者の言葉に煽られるように、波留は周辺を見回す。円卓の椅子の並びをなぞってゆく。 果たしてそこには、誰も居なかった。 実際には、波留の立ち位置にはタカナミ書記長が居るのだから、円卓には現在2人が着いている。しかし、居るべき後1人の姿が何処にもなかった。 不意に波留の視点が変わる。若干高くなった。それが着座から立ち上がった事による視点変更だと、波留はすぐに気付いた。 ――では、気象分子プラントの運用を、20周年記念式典で行う事と致します。 タカナミはそう宣言する。特に弾んだ声色でもなく、事務的な口調だった。普段通りの彼女そのままである。 それでもその発言の直後から、拍手が巻き起こった。円卓を囲むモニタ画像では、表示されている人間の顔写真に拍手のアバターが被さっている。波留にはそれが、一見して奇妙な光景に思えた。 アバター達は笑顔を選択し、拍手動作を行っている。波留はその光景を眺めつつ、眉を寄せた。心中では、段々と不快さが増してくる。 ――久島が居ないのに…この場では、誰も疑問に思わなかったのか?議事の進行が優先されたと言うのか? この記憶の光景の時間帯は明示されてはいない。しかし状況証拠から、それを推測する事は可能だった。 こんな重要な席に、久島が欠席するなどあり得ない。そして気象分子プラントの決議なのだから――あの久島が失踪した朝の時間帯なのだろう。 電理研の久島部長が前日に異議を申し立てたが、決議当日に欠席した。しかし彼に同調する者は誰も居なかった。むしろ、この時点では厄介払い出来たとすら思われている――この様子からは、そう解釈する他ない。 こんなにも孤立無援な状況で異議を申し立てたとは、確かに更迭される恐れは充分にあったのだろう。 ――どうして、僕はもっと、久島の力になれなかったのだろう。なってやれなかったのだろう――波留は暗澹たる気分に陥った。 そんな時一律の拍手音の中、断続して聞こえる音があった。波留はそれに気付く。 その音のする方に視線を向けると、そこには黒コートの男が座っていた。彼は静かに両手を打ち合わせ、拍手をしている。 周辺のモニタの人物達は単純なアバターとしての拍手のため、動作はどうしても同一のものとなる。しかしこの男は全身を投影したアバターだから、出来る動作はリアルの人間と殆ど変わらない。拍手をするにしてもそのリズムは若干ずれて来てもおかしい話ではなかった。 彼の拍手の動作は、何処か緩慢としている。そしてその顔には笑みらしきものは一切浮かんでいない。 ――ジェニー・円と言う人物が、気象分子プラントの推進者だった。つまりこのプラント稼働決議は彼の悲願だったはずである。 なのに、それが成就したはずのこの場において、彼は笑いもしていない。彼の周囲に存在するのは2次元画像アバターのみである。喜びを分かち合う仲間が居なかったにせよ、成し遂げた喜びは自然に顔に表れてくるだろうに。 ――彼は、久島の事を心配していたのだろうか? 彼だけが、久島に気を回してくれていたのだろうか? 厳つい男の無表情を眺めながら、波留はそんな事を思っていた。 そんな中、またしても波留の視界に光が走る。記憶が切り替わりを見せてゆく。 今度は風景が変化していた。円卓の会議場ではなく、執務室のようだった。重厚なデスクは電理研のオフィスを思わせるが、間取りが違う。そのデスクも黒色の盤面を持ち、モノリスとしての機能を有しているようだった。 不意に、そのデスクの中空に人影が浮かび上がる。輪郭がぶれ、光の粒子を纏わりつかせたそれは、アバター投影だった。 その人物は黒コートの男だった。相変わらず厳つい印象を漂わせたまま、波留の方を見据えてくる。 どうやら書記長が彼との通信を試みたようである。それも単なる電通ではない。こうしてアバターとしての彼を呼び出したのだから、どちらの立場が上なのかを知らしめているかのようだった。 |