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幾度目ともつかない溜息を漏らした後、波留はゲートにかざす手を下ろそうとした。 事の真相は明らかになったと見て良いだろう。問題はこの後、どうするか――だった。 ブレインダウン直後の今、とりあえずはタカナミの治療が最優先事項とされたのは当然だが、彼女が危機を脱したなら、その原因への調査が行われるのもまた当然である。「島の重要人物を目標としたテロ」とも受け取れる現象なのだから。そして実際に「誰か」からの攻撃の結果なのだ。 電理研とて無能ではない。波留を欠いたにせよ、優秀なメタルダイバーはいくらでも存在する。職員として所属するプログラマーなら尚更だった。 タカナミの意識はこうして確保されて無事なのだから、そのログを辿れば謎のメールの存在も明らかになるだろう。そのメールを徹底分析すれば、アイリスへの糸口を掴む可能性も少なくはないだろうと思われた。 ――では、僕はどうすべきなのか? それを思うと、波留はその手を下ろす事が出来ないでいる。タカナミの自意識へのアクセスを未だに遮断していない。 アイリスを守りたいのならば、この空メールをタカナミの中から完全に消去すべきだった。それで、ふたりが繋がる痕跡は一切無くなるのだから。 だが、それはエリカ・パトリシア・タカナミと言う人物の意識の改竄である。明らかな違法行為に他ならないし、倫理にも悖る行為だった。 そんな事を実行しては、波留はまともなメタルダイバーではなくなる。正真正銘の犯罪者に墜ちる。或いは違法行為が発覚しなかったとしても、自身が良心の呵責に耐え切れなくなるだろう。 では、このままアイリスを割り出され、そのまま彼女を犯罪者にしてしまっていいのか? いくら未必の故意と認定されたとしても、一個人の意識を危険に晒した行為は否定出来ない。電理研なり評議会なりが、彼女に何らかの措置を講じるだろう。 以上のように、波留は逡巡を続けている。自分が割を食うならまだしも、どちらに至っても別の誰かに責めを負わせる事になる。それを思うと、普段は積極果敢な波留でも迷わざるを得なかった。 その時だった。 ――もう、終わりにしよう。 不意にそんな声が波留の電脳に流れ込んできた。それは女性ではなく明らかに男性の声だった。そして波留にも聞き覚えがある声色で、若い青年のものだった。 突然の事に、波留は瞠目する。バイザー越しに、ゲートに目を凝らした。その間に突き出された彼の右手はグローブに覆われていて、ゲートからの光を浴びている。その手には、海水に紛れて光の粒子がまとわりついていた。 ――これから忙しくなるし、あなたと遊んでいる暇はないものね。 続いて、また別の声が聞こえてきた。今度は女性の声で、またしても波留には聞き覚えがある。と言うか、彼が閲覧しているこの記憶の持ち主に他ならなかった。 じわじわと染み込むように、波留の脳裏に映像が流れ込んで来ている。 どうやらそこは寝室のようで、記憶の持ち主はそこに横たわっていたらしかった。薄暗い部屋のベッドの脇にチェストがあり、その上にはワインボトルとグラスが2個存在した。 そして声の主は身を起こし、ある方向を見ている。その方向には光が射している。どうやらこの部屋の出入り口のようで、そこには誰かが立っていた。外からの灯りを背にしたまま、決して敷居を跨ごうとはしない。 ――…すまない。 やがて、入り口の人物はそう漏らす。そのまま室内に会釈するように一瞥をくれ、踵を返した。光の中に、短い黒髪が垣間見えた。 この時点に至る以前に、波留には既に状況が飲み込めていた。つまり、これはタカナミ書記長の記憶である。接続を切っていなかったがため、彼女の記憶が波留に流れてきたのだ。 ブレインダウンした彼女の記憶は今、回収され固定されている。しかしその自意識への固定が完全に終わるまでは、予断を許さない。安静にしていればそのうち平常化するはずだが、その安定の最中の記憶が接続状態の波留に見えてしまったらしい。 おそらくは、この辺りの記憶はタカナミにとって強く刻まれているのだろう。それを回想する形式で自意識への固着が進み、それを波留に垣間見せたのだ。 が、しかし――と、波留は思いを新たにする。首を横に数度振った。 波留とて、それまでに、気付いていなかった訳ではない。そもそもタカナミ書記長は独身女性である。どのような恋愛をしようが、問題はない。その相手側も独身男性なら、充分に。 ――今となっては、お互いの立場上、難しいのかもしれない。しかしそこに至る以前に既に関係は終わってしまっているのなら、もうどうでもいいのだろう――。 蒼井ソウタと言う名の青年とタカナミとが、以前恋愛関係にあった事を、波留は知らなかった訳ではなかった。 波留はそれを、当人達の口から直に訊いた訳ではない。が、何となく理解はしていた。7月の事件当時、タカナミがこちら側と共同戦線を張り関わる事が多かった頃には確信に至っていた。 ――流石にミナモさんが知ったら、ショックなのだろうか。ぼんやりとそんな事を考えた位で、波留の中ではそれは終わっている。中学生の少女には少々刺激が強い関係のように思えたから。 今回、波留が首を振っているのは、別問題からである。 流石に、他人の恋愛沙汰を出歯亀するのは、いくら何でも趣味が悪いと思った。恋愛とは、プライベートに過ぎる内容である。最終的に結婚に至ったならまだしも、このふたりは別れたのだ。今更ほじくり返しては貰いたくはないだろう――。 眼前に晒されてゆくタカナミのソウタとの想い出を前に、波留はどんな顔をすべきなのか判らなかった。 馴れ初めらしき光景を前にした際には「彼女はまだソウタ君に未練があるのだろうか」とちらりと思う。強い記憶だからこそ固着のために回想され、波留の前に晒されているはずだから。 これらの記憶を出歯亀したくないのならば、タカナミの意識へのアクセスを遮断すれば良いのだろう。しかし、波留はその手を下ろそうとはしない。 別に、覗き見が楽しい訳ではない。だが、こうやって彼女の記憶が波留側にも流れ込んで来ている以上、それを不用意に遮断しては流れを変化させてしまう可能性があった。そうなれば、意識の定着が上手く行かなくなるかもしれない。下手な介入を与えず、意識は流れ落ち行き着くままにしておくべきだと彼は思った。 タカナミの生々しい記憶を眺めても、気恥ずかしいのは波留自身ばかりだった。それらを見てしまった事を誰にも言わなければ、プライバシーの侵害は最小限に食い止められるはずだった。そして波留は、そんな記憶を言い触らす気にもなれない。 ともかく早く彼女の自意識が固着しこの再生が収まってくれないかと願いつつ、波留は瞼を伏せる。しかし視界を塞いでも電脳自体に記憶が流れ込んでくる以上、彼はタカナミの記憶を延々と垣間見てしまっている。だから彼は若干心を閉ざして黙り込み、嵐が過ぎ去るのを待つのみだった。 |