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回線が開かれてからは、今度は相手が波留を待たせてくる。しかしそれも数秒間に留まる。通信開始までに20コール以上を費やした波留の比較にはならない。 ――…久し振りだな、波留。 暗号通信形式ではあるが、電通音声はクリアである。先のアイリスとの電通とは異なり、ノイズの妨害などは入って来ない。第三者からの盗聴を阻止するスクランブルが掛けられてはいるが、電通相手同士にはその影響は何ら存在しない。それが暗号通信だった。 そんな前提は、波留にはどうでも良かった。彼は腕を組み、背中をキッチンの流しに預ける。丁度腰の辺りにステンレスの感触が伝わってきた。 ――わざわざ暗号通信で、フリーのメタルダイバーに何の御用ですか? 口を堅く結んだまま、波留はそんな電通を乗せる。聴覚に届いたのは、彼にとっては聴き馴染みのある声だった。しかしその声はどういう意味で、自分の心身に馴染んだと言えるのだろうか?波留は、そこを突き詰めたくはなかった。 波留はダイアログを見据える。暗号回線だからか、相手の姿は全く表示されない。着信者用画像すら映し出されていなかった。そこにあるのは、着信者の名義のみである。 挨拶めいた台詞以降、続くべき声は波留に届かない。全く動きがないダイアログを眺めていると、青年の苛立ちは尚更となる。彼は眉を寄せ、組む腕に添えた手に力が入る。いい加減、用件を問い質そうかと思った。 その頃合いに、ようやく電通回線に音が戻った。その音声は、波留のものではない。 ――10分前、タカナミ書記長がブレインダウンした。 ――…え? その声を聴き付けた瞬間、思わず波留は怪訝そうな一声を上げる。そして、そのまま思考が留まっていた。 今、一体何を言ったのか?相手の言葉はあまりに唐突過ぎ、簡潔にも過ぎる。彼はその内容を把握しかねていた。 ――電理研には逐次ブレインダウン症例を発症した患者の報告が上がってくる。そのリストの最新分に、彼女の名があった。と同時に、極秘に別ルートで直接報告も受け取っている。 そこに、冷静沈着な声が状況を説明してくる。その言葉が波留の思考を解きほぐして行った。 ――緊急だ。君に早急に書記長の意識のサルベージを依頼したい。 静かな声が波留の電通に続いてくる。語る内容は簡潔であり、依頼としては必要最低限にして当面は充分と言える内容で構成されている。 無論、他に知りたい事があるのならば、訊かれた時点で答えを寄越すだろう。只、依頼を告げる段階では余計な修飾を取り払っているだけだ。 この態度は、声の主に相応しいものだった。波留はそう思う。 その一方で、波留は思っていた。 ――では、この声の主は一体誰だ? 「彼」は一体、どちらのつもりなのだ? 答え如何では――僕は、それが確定したその時、どうしたいのだ――? 波留は唇を噛み締める。呼気が胸に詰まった心地がする。俯き、瞼を伏せた。電通の視界すら閉ざそうとした。そんな彼の逃避を遮るように、声が飛び込んでくる。 ――これは正式な電理研からの依頼だ。今までの事はお互い、水に流そう。 その台詞を認識した瞬間、波留は瞠目した。身体全体でびくりと反応する。口が開き、何かを言い掛け、しかし閉じられた。噛み締めるように、奥歯が音を立てる。 僅かに身じろぎした後、波留は押し殺したような声色で電通を飛ばした。 ――それは…極秘扱いの依頼と言う解釈で、宜しいですね?電理研からわざわざ外部の僕に寄越すんですから。 ――ああ。幸い、その事務所には充分な設備がある。君にはそこから直接ダイブして貰い、書記長の意識メタルを安全な領域に固定して欲しい。 波留が持ちかけた依頼への質問に、電通相手は淡々と答える。その回答は明快で、波留からの問いに過不足なく答えを寄越していた。 ――彼女がブレインダウンしてから10分程度と言う認識に間違いはありませんね? ――報告通りならばな。 ――判りました。彼女のアドレスは僕も知っていますので、これからすぐに向かえば大規模な拡散もないまま確保可能でしょう。 そう告げ、波留は頷いた。腕を解き、背中を預けた流しに両手をつく。身体を支えつつ、背中を剥がした。拍子に身体が全体的に揺れ、垂れた髪が顔や首筋をくすぐった。 ――救出の手法は君に任せる。ダイブログの提出も必要ない。ともかく、書記長を頼む。この島のためにも、彼女を失う訳にはいかないのだ。 電理研の依頼ではあるが、波留の行動に制限を加えるつもりはない。フリーハンドでやって貰って構わない――そんな台詞の内容の割に、その口調に変化は見られない。一個人の人格的消失が掛かっている事態だと言うのに、相手の情に訴え掛けるような切迫さなどまるで存在しなかった。 その現状に、波留は目を細める。口を開いて唾液で湿らせる。前髪が目元に掛かり、影を落とした。 そして彼は、電通ダイアログを見据える。そこに表示されている名前を眺めつつ、努めて淡々とした声色で電通を飛ばした。 ――ジェニー・円さんがこの島を去り、久島部長が倒れた今、タカナミ書記長までをも失ってしまっては――と言う事ですか? 返答は、来なかった。 これが意地の悪い問いだとは、波留も自覚していた。この答えの内容によっては「彼」は幾分かの綻びを見せるのだろうかと思ったのだから。 しかし、「彼」は答えない事を選んだようだった。それは正しい選択肢ではある。相手に隙を与えないようにしているのだから。 波留はゆっくりとかぶりを振った。思考を元へ戻す。今やるべき事を見据えるべきだと思った。 ――…では、作業を始めますので、この電通を切りますよ。 ――ああ、頼む。波留。 以上のやり取りで、暗号通信は終了した。ふたりの了承の元に回線は切断され、波留の電脳は沈黙を取り戻す。 彼の視界からダイアログは全て消え去る。リアルの光景をそのまま見据え、俯いていた。 その彼の唇が、僅かに動く。ぼそぼそと呟きが漏れた。瞼から覗く瞳の色は、何処までも昏い。 「………あなたに、慣れ慣れしく呼ばれる謂われは、僕にはないはずだ…」 波留の低い声が、室内の沈黙に埋もれてゆく。その声のまま、彼の思考は沈んで行った。 ――今まで「彼」は、僕の事を基本的にフルネームで呼んでいたではないか。なのに何故、今回は「波留」としか呼ばないのか? 彼に他意などないのかもしれない。もしかしたら、今までもたまには苗字のみで呼び付けていた時もあったのかもしれない。 だが、今日は最初から最後までだ。そこには何らかの意志が介在するのか?――そこに介在を認識しようとするのは、人間の側に問題があるからなのか? AIやアンドロイドとは、人間の映し身に過ぎないのだから。そのはずなのだから。 俯いた波留の両手には、何時しか拳が形作られていた。その手が静かに震えている。口元は歪み、喰い縛った歯が覗いていた。 そんなフロアに、猫の鳴き声が微かに聞こえてきた。 ふと気付いたように波留は通路の向こうに視線を向ける。すると、猫の餌やりスペースからじっとこちらを見ているらしきぶち猫の姿が垣間見えた。餌皿にはまだ半ばまでキャットフードが残されている。 ともかく波留はその行動から、我を取り戻す。ゆっくりと首を横に振った。今までの思考を振り払おうとした。 色々と考えあぐねる事はあるが、それは今は別問題としなければならない。 タカナミ書記長がブレインダウンした――それ自体は、紛れもない事実なのだろう。彼はそう思う。 嘘の依頼を波留に寄越す意味なぞ、電理研には存在しない。仮にあるにしても、この嘘が与える影響は大き過ぎる。それを思えば、愚かな行為と否定出来る。 そしてこれが事実である以上、島の一大事となる事もまた事実である。そうでなくとも、人間独りの意識が危機に瀕している。それを見逃して良い訳がない。しかも、妙な拘りから勃発してしまっているいざこざに巻き込んでは、倒れた彼女にはいいとばっちりだった。 ひとまず、タカナミ書記長を救って来よう。全てはそれからだ。 波留はそう決意した――それでは、果たしてその後に何を成すべきなのか。彼自身にも良く判ってはいない。あまり判りたくはないのかもしれない。 そんな彼の姿を遠巻きに、シュレディンガーが見つめている。猫は餌が残る皿を前にしても顔を上げて微動だにせず、メタルダイブ用の部屋に消えてゆく波留の背中を見送っていた。 |