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瞬間、大きな呼気が彼の口から漏れる。胸郭が膨らみ、身体の全てが空気を求めた。 波留は跳ねるように目覚めた。大きく目を見開くと、天井に輝く室内灯が視界に入った。背中には柔らかく包み込んでくるような感覚が広がっている。 それらの感覚に、彼は自分が託体ベッドに横たわっていた事を想い出した。そしてここは自らの事務所のメタルダイブ用施設だと認識する。 状況を理解した彼は数度息を付いた。そうやって呼吸を整える。 すると頭がずきずきと痛んだ。その痛みは息をする毎に、全体的に拡散してゆく。しかし、それ以上の新たな痛みは来ない。どうやら痛みの原因は既に取り去られていたようだった。 不意に、みゃあと短い音声が彼の耳に届く。 聞くにそれは猫の鳴き声である。音に従い、波留はふと視線を横に向け、そのまま下に落とす。 視界に入ったベッドの足下に、灰色基調のぶち猫がちょこんと座っていた。「彼」は尻尾をぴんと立てて揺らしたまま、その顔はベッドの上の人間を見上げている。 ――何時の間にこの部屋に入り込んだのだろう。規則正しく左右に揺れる尻尾をぼんやりと眺めながら波留は思う。 確かに扉を閉めていなかったため、猫だろうと容易く入り込める環境ではあった。しかし、用もないのに歩き回るような猫ではなかったはずだ。 ――ならば、餌の催促だろうか?しかし、放っておけば何も食べずに数日は寝て過ごしてしまいそうなのが、この怠惰な猫である。そもそも、いつもの餌の時間から遅れている様子でもない。 シュレディンガーと言う仰々しい名を持つ灰色ぶち猫は、一声鳴いたきり何も言わない。ベッドの下に座り込み顔を上げ、尻尾を緩やかに揺らしているのみだった。それ以上の動きは全く見せようともしない。 そんな猫の瞳をじっと見下ろしても、波留にはどうにも無意味に思えてきた。彼は寝転んだままふうと溜息を付き、視線を外す。右手で前髪を掻き上げた。 そうこうしているうちに、痛みは彼の脳から取り去られていた。猫の相手をしてると無心になれると言うのは本当らしいと、この短時間の体験でも改めて感じ入った。 そのまま彼はゆっくりと上体を曲げ、ベッドの上で起こす。その間、身体に異常はないかと簡単にチェックしてみるが、特別な違和感を覚える事もない。開けた視界も通常だった。 ――異常なのは、今回のメタルダイブの終了状況だった。 端的に言えば、先程の波留は、電脳に攻撃を受けた影響でメタルへの接続が維持出来なくなり、強制的に切断されたのだ。あの状況は、そう評する他なかった。 そして、先の体験から「攻撃」を呼べる行為を割り出すとすれば――あの少女の声と、「杖」の動きだろうか。彼はそう考える。 アイリスの音声からノイズが外れた後に聞こえてきたのは、少女の音域を持つ声だった。 と言う事は「アイリス」と言うハンドルのメタルアーティストは、少女と考えるのが妥当なのだろうか。しかし、そこは重要な問題ではない。アイリスの正体云々は、依頼としての調査対象から外れてしまっている今となっては最早どうでもいい問題だった。 激情に駆られたアイリスが、そのまま波留を攻撃したのだろうか。「彼女」は何らかの攻撃プログラムを所有しており、思わずそれを波留に向けてしまったのだろうか。 攻撃プログラムの所有など物騒極まりないが、「彼女」はこの2日間危機と不安に晒されていたのである。自衛のためと称して、グレーゾーンめいたプログラムを準備していても心証としてはおかしくない話だった。 波留とて一流のメタルダイバーにして、それを生業としてきている身の上である。他者からの攻撃に対し、防御対策も怠っていない。しかしそれらの対策も、同じメタルコミュニティに接続してしまえば無効化されてしまいかねない。 特に、今回に限って言えば、アイリスと波留はホストと参加者の関係である。ホストは管理コミュニティにおいては、参加者に大きな権限を握っている。素通しで何らかのプログラムを実行出来た可能性もあった。 しかし、別の可能性も存在する。 アイリスには全く他意はなかった。激情に駆られて波留を糾弾したのは確かだが、彼女自身に攻撃プログラムを実行した自覚などない。彼女の攻撃的な意識そのものが、波留の電脳に直接影響を及ぼしたのだ。言わば、真の意味で「意識の力」にて誰かを傷付けようとした――そう表現出来る。 果たして、そんな事が可能なのだろうか。その思考実験を成すには、波留に提示されている情報はいささか足りない。想像で補わなければならない。 リアルではあり得ない話だろう。仮にあり得たにせよ、それは超能力とかそう言う眉唾ものの話に墜ちる。波留の本分ではない。 しかし、今回の舞台はリアルではなくメタルである。メタルとはログインした各人の意志が剥き出しになった世界であり、誰かの感情がダイレクトに影響を及ぼしてくる可能性は否定出来ないのではないか? 更に、波留がこのアイリス関係の調査にて、意識に衝撃を受けたのは今回が初めてではない。当時は「イリス探索」ではあったが、匿名メタルアートを体験したり「蒼い石」を作成したり――様々な事を試しているうちに電脳に衝撃を受けたものだった。 今回、メタルから落とされた際に聴いたのは、白い杖が転がり砕け散る音だった。そして似たような音を、以前にも聴いた事があるような気がした。 そして「白い杖」と言えば、盲目の人間が使用するものである。そしてアイリスは、リアルでもメタルでも盲目のはずで――。 ――そのような事を考えつつ、波留はシュレディンガーのために猫缶を手にしている。 メタルダイブ用の部屋から出て時計を確認すれば、確かに餌の時間が近かった。だからそのまま餌を与える事にした。 波留は収納棚から缶を1個取り出し、プルトップ式の蓋を開け、餌皿に中身を開けてゆく。そんな彼の後ろを、猫はひょこひょこと付いてきている。それでも、声を上げるような真似も催促めいた動きも一切起こさない。手が掛かるのかそうでないのか、相変わらず良く判らない猫だと世話する青年は思う。 彼は缶の中身を綺麗に餌皿に開け、適度にほぐしてやる。その作業を終えた青年が腰を上げると、後ろの猫がてくてくと餌皿へと歩み寄った。人間と入れ替わるように皿の前に座り込み、口元を餌へと寄せる。 決してがっつく訳ではないがもそもそと食べてゆく猫を、空の缶を手にした波留は見下ろしている。視界にミルク皿が入ると、ついでに継ぎ足しておくかと思う。 猫用ミルクのパックは、人間用と同様に冷蔵庫へしまっている。彼はそれを取りに行こうと、歩みをキッチンへと向けた。ついでにこの空き缶を洗ってから処分してしまおうとも考えていた。 どうやら猫に関わると、余計な事を考えていられなくなる。本当に無心になれるらしい。今の彼の行動がそれを実証しつつあった。 その無心を掻き乱すように、波留の電脳に電子音が鳴り響いた。 缶を手にしたまま彼は足を止める。視線を中空に持ち上げ、電脳内にポップアップしてきたダイアログを目視した。 それは電通の着信を示すダイアログだった。波留はそれを何気なく眺め、自然に視線が着信者の名義へと至る。 その名を認めた黒髪の青年の両目が見開かれた。缶を持つ手が下り、手の中のものを取り落としかける。身体は反射的に反応を見せ、それを思い留まらせた。 自らの意志に反した一連の動きに、この時点で彼は気付く。その事実を認めると、頭が冷えた気がした。冷静さを保つように心掛けつつ、姿勢を制御する。とりあえず、缶を流しの上に置いた。 中空に浮かぶ電通ダイアログに表示された着信者名とは「久島永一朗」である。その人物が、波留を呼び出そうと延々と着信音を鳴らし続けていた。 この状況に波留は眉を寄せる。唇を噛んだ。 ガラス状の外壁からは傾きかけた夕陽が差し込んで来ている。リアルの空気は静寂そのものなのだが、彼の聴覚にはそれを執拗に切り裂く電子音が続いている。前髪を掻き上げても、リアルの視界は掌に遮られるがそこにあるダイアログは残ったままだった。 波留は僅かに口を開いた。軽く息を吸い込む。猫缶に残っていた臭いが僅かに鼻腔に飛び込んできた。 ダイアログに表示されたステータスを眺めると、着信電通が暗号通信を求めている事に気付く。それを不審に思うが、現状はそれどころではない。相手は諦める様子を一切見せず、波留を呼び出し続けていた。 とは言え、波留としても心底から無視を決め込みたい訳でもなかった。出なければならないとは判っている。多少の苛立ちと動揺とが、それを一時遮っただけだった。 通常回線だろうが暗号通信だろうが、遮断する意味は全くない。たっぷり20コールは待たせただろうが、それにも他意はない。 軽く首を傾げ、波留はそのダイアログを実行した。 しかし、待たせた旨を謝罪する気は起こらなかった。その行為に、今の彼は意味を見いだせなかった。 ――相手が相手なのだから、そんなものに意味がある訳がない。意味があるとすれば、それは人間の自己満足を満たすだけに過ぎないのだ。 彼は内心、そう思っていた。強弁したとも表現出来るかもしれない。 ともかく波留は、要求された暗号回線を開いた挙句、そのまま無言を通していた。 |