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しばしの沈黙の後、アイリスの声が再びログハウス内へと響き渡る。ノイズ混じりな状態には変わりないが、落ち着きを取り戻していた。 ――…あなたは、書記長を信頼している? ――そうですね…多少は。 アイリスからの問いに、波留は静かに頷いた。 彼とエリカ・パトリシア・タカナミと言う女傑とは、7月のあの騒動の最中に実際に顔を合わせ、同じ目的に向かい、紆余曲折あったもののそれを完遂させた。 その際、一歩間違えたならば、彼女の政治生命は終わっていたかもしれない手段を選んだりもしている。それでも彼女は自分達の企みに付き合ってくれたのだ。 タカナミ書記長と言う政治家は、最終的には充分過ぎる利益を得ている。その過程にて、彼女と互する権力を有していた人物は結果的に排除されたのだから。ひとりはテロに倒れ、もうひとりは引責辞任し島から去ったのだ。 現在、人工島の政治体制としては、タカナミ書記長の一人勝ちと言える。後の2人の地位は後任が継いだが、流石に彼女には力が及んでいないのだから。 あの7月の騒動にてタカナミは危険な賭けに出たが、その結果充分な取り分を得ている。波留はその片棒を担いだ格好にもなっているが、当時の彼に他の選択肢はなかった以上、現在においても後悔など露もない。 その7月以降は、波留は彼女と特に付き合いを持ち続けてはいなかった。彼自身、その必要性を感じていない。島の権力者の力を借りなければならない事態など来なかったからだ。 或いは、10月末に再び島の要人を狙ったテロが極秘裏に勃発したりもした。そして波留はそれに巻き込まれている。しかし、その際にも彼は書記長とは一切関わり合いを持ってはいない。関わる以前に事件をとりあえず収拾させたからだ。 それでも、その事後には多大な被害が残された。それが世間の明るみに出なかった以上、評議会内で彼女なりに上手く処理してくれた部分が大きいのだろう――政治的な内情を全く把握していない波留にも、それだけの想像はついていた。 つまり、波留真理と言う人間は、実体験から、エリカ・パトリシア・タカナミと言う政治家の能力を信頼している。それは彼自身、認めていた。 一方で、波留は彼女とは深い付き合いは結局築かなかったため、人となりについては良くは知らない。しかし人格と能力には、相関関係は存在しないものである。 彼にとってタカナミ書記長とは「有能で信頼出来る政治家」――それ以上でもそれ以下でもない。そしてそれが彼がその女傑に下すべき最良の評価と表現出来た。 ――書記長は、一貫してこの島の事を考えてらっしゃる方です。 波留はその台詞を、実感を伴い電通に乗せていた。 何故なら、7月の騒動にて自分の立場と利益とを投げ打ってでも、気象分子散布を中止しようとしたからだ。現在彼女が得た利益は、あくまでもその後から付いてきたに過ぎないのだ。 ――…人工島は、楽園だって? そこにアイリスは、そんな問い掛けを漏らす。それは決して大袈裟な表現ではない。「楽園」――それは人工島が内外に掲げ、他者も認める評価である。 2061年現在、科学の最先端をひた走る、メタルを社会システムの根幹に位置付けたアジア南海の孤島。その入植条件は金銭的にも社会的立場的にも厳しく制限されている。観光目的ですら、そう簡単に立ち入る事が出来ない島。 それ故に、島で得られるものは大きい。優れた科学技術を満喫し、優れたメタル社会を享受可能としている。入居者数は島の面積に対し適度に設定され、周辺各国と比較して治安は著しく良い。 世界中の誰もが、この島への入植権を得たいと願っていると言う。せめて株主となって島の経営に関わろうとしても、その株価は一貫して高止まりを保っており、購入するのもまたハードルが高い。流石に7月の動乱では一時期値を下げたものの、評議会の手腕のおかげかすぐに持ち直していた。 しかし、実を言うと、波留はアイリスへの返答に迷っていた。 自分は、心底からそのお題目を、信じているのだろうか? 彼は人工島に住んでいる立場だが、別にその権利を得たくて得ている訳ではない。ほんのちょっと眠っていたつもりが、目覚めたら約50年経過していてこの島に滞在していたのだ。 入植権の申請などは、彼の保証人が全て済ませていた。この権利は世界的にも得難いものだとは、今となっても殆ど実感が湧かないのが彼の本音だった。 しかし、そんな権利云々などが、彼の心に引っ掛かるのではない。彼が納得出来ていないのは、もっと別の問題だった。 人工島は楽園――自分が信じてもいないかもしれない事を、僕はこの相手に、言い張るのか? 思惟に浸りつつ、波留は瞼を伏せていた。アバターの顔立ちではあるが、僅かに眉根が寄っている。奥歯が当たり、顎に力が入っている事にふと気付いた。妙な力みが身体にある。アバターでそんな感覚に至るのは、精神が緊張しているからなのだろう――。 波留はゆっくりと瞼を開く。眼前には、相変わらず闇があった。 ――…書記長は、おそらくはこの島に、楽園を作りたいのでしょうね。そしておそらくそれは、島の偉い人達の総意だと思います。 穏やかな顔でそんな言葉を告げながらも、波留の内心は空虚だった。当たり障りない表現に終始したと思った。そうやって無意味な言葉に逃げた気がした。 自分はこんな言葉で、果たして説得されるのだろうか? ――自分を説得し得ないくせに、相手を説得出来るのだろうか? そして何故、僕はそれを信じ切れないのか? 彼が内心のその正体を探ろうとすると、見据える闇の中に微かな人影が垣間見えた気がした。その後ろ姿がゆっくりと振り向くと、紫がかった蒼い瞳が鈍い光を弾く。それは義体特有の瞳の色合いで――。 その瞬間だった。 ――嘘だ! 鋭く短い声が、この空間を切り裂くように響き渡った。その上に乗るノイズが音割れを起こし、酷い雑音を醸し出している。 はっと波留は顔を上げた。拍子に前髪が舞い上がるように持ち上がる。反射的に右手で右耳を押さえると、妙に奥の鼓膜が痛む心地がした。 ――人工島が楽園なものか!だったら何故、私はこんな目に遭わなきゃならないんだ! 鋭い声が続き響く。それは甲高い少女の如き声色だった。――それを認識した時、波留はノイズ化工が音声から外れた状態に陥っている事に、気付いた。 その甲高い声が響くとずきりと頭が痛む。まるで脳に直接針でも刺されたような印象だった。 痛みに波留は眉を寄せた。顔が歪む。それに比例するように、眼前の闇が僅かに薄れた。その黒に白が滲んでゆく。 ――楽園なら、何でも出来る場所なんでしょ!?なら、この目を治してよ!私の好きにさせてよ! 波留の眼前に広がる闇が黒から白へと転じてゆく最中、そこから手が伸びて来た。その手は更に白い肌で痩せこけていて、病的な風貌と相まってまるで死人のそれを思わせる。 ゆっくりと伸ばされたその手が広がり、何かを糾弾するように闇の外へと指を向ける。突き出されたその手を、波留は見据える。視線を外せなかった。それでも気圧された心境に陥り、一歩後ずさっていた。 ――誰にも話しかけて来て欲しくなかった!こんな私なんか見て欲しくなかった! 鋭い声が直接脳に攻撃を加えてきている。波留はそんな印象を受けた。 ここがアバター空間である以上、聴覚の経路はそのまま脳に至る。だから、それを伝って脳に攻撃を仕掛ける事は、充分に理論上あり得た。そして彼がこのコミュニティにログインしている以上、通常展開している防壁は意味をなさない。電通で繋がった相手から素通しで攻撃を受けている状態と言えた。 そのような攻撃紛いの音声に晒され続けているからか、波留の電脳が痺れを覚え始める。しかしまだ耐え切れない状況ではない。負荷で落とされる前に自力でこのコミュニティからログアウトする手順を踏む余裕はありそうだった。 彼はそれを試行すべく、電脳にてダイアログを展開しようとした。 その時、眼前に伸ばされた手に、何かが握られている事に気付いた。それは棒状の形をしていて、細い手にもしっかりと捕らえる事が出来ている。ぼんやりと輝くそれは白い色をしていた。 ――…嘘つきなんか、消えてしまえ。私に決して、関わるな。 押し殺すような、ひんやりとした言葉が静かに響いた。その瞬間、細い手が開く。手にしていた白い杖が、そのままアバターの床へと落下した。 着地の瞬間、甲高い音が立つ。次いで、杖が砕け散り四散した。 波留がその光景を目撃した瞬間、電脳に一層強い衝撃が走る。そして視界の全てがブラックアウトした。 |