立ち尽くす波留のアバターはゆっくりと瞼を伏せた。盲目ではない彼の視界は、これで一旦遮断される。見通せない暗闇をずっと見据えていた彼の眼球は、闇に慣れた状態ではあった。視覚情報は脳にて処理される感覚であるため、リアルもアバターも大差ないらしい。
 やがて波留はその瞼を開いた。闇から闇へ、視界が店かする。それでも闇の隅にはぼんやりとした光が感じられた。背後のイリス作品の発光現象の余波がここまで届いているのだろう。
 波留は口の中を湿らせた。まるでその口を開いて喋り始めるが如きだった。
 ――折り入ってお話があります。
 やがて、彼は闇の中へと語り掛ける。口は閉ざしたままで、今までの電通とは何ら変わる点はない。しかしその表情は厳しいものとなっている。その一点が、唯一絶対の変化だった。
 ――…パトロンからの支援を受けるつもりはありませんか?
 言い掛けた後に、若干の間を置いて波留が言った言葉とは、それだった。
 ――………え?
 その言葉に、アイリスは反応出来ない。思わず発したとおぼしき声がそのまま電通回線に乗り、ログハウス内に響いた。
 戸惑いを隠せない相手をよそに、波留は言葉を継ぐ。自分が用意していた言葉を全て告げようとしていた。
 ――僕の所にそういう話が来ました。事情はどうあれ、僕で止めずに当事者たるあなたにお伝えしておくべきだと思います。
 ――…いや、私にはそんな気はないってば。この前そう言ったでしょ?
 波留の申し出をアイリスは戸惑いつつも断ろうとする。それは前回と同じ態度だった。そもそもその態度を前回明らかにしたからこそ、波留は意見書とやらを提出したのではなかったのか?
 アイリスの疑問を前に、波留は新たな情報を開示する。冷静な口調のまま、告げた。
 ――これは例の依頼主ではなく、評議会書記長からのお話です。
 波留が挙げた人物とは、流石に人工島島民ならば誰でも知っている存在だろう。政治に疎い人間や直接関わらない未成年者などならば、個人名を知らない事もあるかもしれない。入植直後の人間ならば実際に会見を目にした事もないかもしれない。
 しかし、その肩書きそのものならば、島民でなくとも知っている確率は高い。島民ならば知らない者など居ないはずだった。
 あまりに知名度が高い人物の関与を示唆されたためか、アイリスは即答出来なかった。只、その肩書きを問い返す。
 ――………書記長?
 ――ええ。今朝、僕の事務所にいらっしゃいました。
 波留の返答は明快である。どうやら、自分の訊き違いでも何でもなかったようだった――アイリスはそう悟る。
 それ以上に、付け加えられた新たな情報が、更にアイリスを戸惑わせるに至る。それをそのまま、相手に吐き出した。
 ――…て言うか、書記長がやってくる事務所って…どういう事?何か凄くない?あなた、一体何者なの?
 動揺のあまりなのか、まるで子供のような質問責めに、波留は苦笑する。今まで固かった表情が綻び、頭を掻いた。
 ――只のダイバー…――のつもりです。
 それは、彼にとっての決まり文句だった。
 指摘の通り、彼は島の政治的な最高幹部と関わり合いを持っているのである。普通の島民にはまずあり得ない事態だった。
 それでも、彼自身は特別な人間であるつもりは全くない。自分は単なるダイバーに過ぎない――そう述べる他、思い付かなかった。
 表情が緩んだ事で、波留の気持ちも若干和む。心中に余裕が沸き上がってきた。そのままの気分で、彼は電脳内でメールアドレス帳を開く。自動的に整列された名義を捲り、該当の人名に行き当たった。
 それを選択し、ドラッグする。彼は現在開いている電通回線に、そのアドレスを持ってきた。音声通話の中にデータを新たに添付する。
 ――この件に際し、書記長からは直通アドレスを頂いてましたので、とりあえずあなたにお渡ししておきます。
 波留は音声にてそう告げた。アイリスへの通話の中、あるアドレスが浮かび上がってくる。
 彼は先日タカナミ書記長から受け渡された直通アドレスをそのままアイリスへと引き渡そうとしていた。それは個人情報の譲渡であり、その情報は島の最高幹部の個人的なものである。本来ならば許されざる事だろうが、今回に限って言えばタカナミ本人からの言質は得ている。
 ――お渡ししておきます。あの時、彼女はそう言ったのだ。あくまでも僕を介するつもりならば、別にアドレスを渡す必要はなかった。
 なのに敢えて僕に、このアドレスを渡したのだ。ならば、アイリスから直接連絡を得たいとの心づもりがあるのだろう――波留はそう解釈し、この行動に至っている。
 ――あなたから連絡なさってもいいでしょうし、御希望なら僕が返答を承ります。
 そこに、彼は付け加える事を忘れていない。タカナミのアドレスを渡しつつも、コンタクトを取りたくなければ自分が間に入る旨は明らかにしておいた。
 どう考えても百戦錬磨の政治家相手に、人付き合いが苦手そうな人物を晒すべきではなさそうだとは思う。タカナミ書記長が真にアイリスの事を考えているにせよ、タカナミのペースに飲み込まれてしまっては可哀相な気がした。
 特に、書記長からの申し入れを断りたいのならば、直接コンタクトを取りたくはないだろう。だから、言ってくれたら何時でも間に入って断っておく――波留はそう、言外に示したつもりだった。
 ――この人、当初の依頼人とは別人なんでしょ?
 ――ええ。
 事実を確認するように問い掛けてきたアイリスに、波留は簡潔に答えた。すると、彼が見据える闇の向こうに存在するであろうアーティストは、独り言のように呟く。
 ――なら、アイリスだって皆にバレてからの話か…。
 まるで漏れ聴こえてくるような声に、波留は眉を寄せた。やはりそこが引っ掛かるらしい。波留自身も引っ掛かりを覚えた、その箇所に。
 書記長がいくら偉そうな事を言ったとしても、これでは電理研の報告書を読んでから慌ててその成果を横取りしようと企んでいるようにも勘繰る事が出来る。一方、最初からの依頼人がどういう人間であれ、当初からイリスだかアイリスだかに興味を抱いていた事は確かだった。
 ならば、どちらを信頼すべきなのか?そもそも、どちらも信頼してやる必要性など、あるのか?
 当初の依頼主からのパトロン希望を、アイリスはにべもなく断っている。同様の依頼を、島民ならば誰でも知っている書記長が寄越してきたとしても、信頼度は増すのか?そもそも当初の依頼主とて、電理研が無視出来ない程の大口株主である。流石に評議会書記長には数歩譲るにせよ、社会的立場は充分に有している人物と推測出来た。
 ――では、このまま誰からの申し出も、断り続けてもいいのだろうか。波留はそんな事を思っている。確かにアイリスは名声を欲してはいない。むしろ放っておいて欲しいと願っている。
 だが、その静寂が何時までも続く保証は何処にもない。少なくとも、波留には保証が出来なかった。
 波留の表情が硬くなる。眼差しは鋭く、闇を見据えた。そして、静かな電通を送る。
 ――あまり信頼が置けない何処の誰だか知れたものではない人間に目を付けられる前に、立場ある方にマネージメントを一任するのも…一考の価値はあるかもしれません。
 今波留が述べたそれは、正に今朝タカナミが彼自身に告げた論拠に他ならなかった。
 しかし、今朝の時点では、波留はそれを否定したはずだった。
 どうあってもアイリスは世に姿を見せる意志は持たないだろう、なのに無理矢理晒し者にするような真似をしたくはない――彼はそんな内容の結論を告げ、一旦あの書記長を引き下がらせるに至っていた。
 しかし、今の波留は「アトリエ」に再度ログインし、アイリスと会話して来た。すると、実際に彼不在の2日間にこのアーティストを恐怖に陥れていたのだと実感した。そして現在、このコミュニティは彼がマスクを掛け、保護してはいる。しかしその防御は絶対ではないのだ。自分の能力の高さは自覚しているが、決して絶対者足り得る事などないのだから。
 ならば――と、先のタカナミの論拠が彼の心をよぎってしまった。
 確かに、アドレスを残していった彼女は、素晴らしい政治家なのだろう。きっとこうなるだろうと予期しておいて、敢えて一旦身を引いたのだから。事の展開を嗅ぎ分けるのが上手いのだろう――波留としてはしてやられた印象を持っている。
 その半ばは賞賛であり、残りは何処か忌々しい心地がした。――やはり自分は政治家と言う人種に対し、好ましくない偏見を有しているのだろうか?
 ――…何それ。
 しばしの沈黙の後、波留の電脳にアイリスの声が聞こえた。それはノイズ混じりのままではあるが、とても冷め切った声色だった。今までとは若干違う印象を醸し出している。
 この人物にとっては波留の発言が予想外の内容だったらしく、更には信じ難いようだった。当然の話だろう。先日の初対面の際に確認し同意してくれたはずのアイリスの意志と、この主張は真っ向から対立するのだから。
 ――あなた、この前と言ってる事違う…。
 続いて提示されるのは、波留の発言に対し明らかに引いているような態度である。その言葉が、アイリスから漏れてくる。ノイズが乗ったその声は、ログハウスの高い天井へと跳ね返って行った。
 そんな相手からの言動にも、波留は怯む様子を見せない。少なくとも表向きは態度を変化させず、真っ直ぐに闇を見据え続けた。
 ――この前からは、状況が激変しました。あの時点の僕には、まさかアイリスの存在が漏れるとは想定出来なかったのです。
 その台詞は、波留の率直な気持ちの表れだった。
 本当にあの時点では、彼はこのような状況を予期してはいなかった。詰めが甘いと言われたなら、その通りである。最悪の可能性まで突き詰めておくべきだったのかも知れなかった。
 ――でも、今だってあなたが守ってくれてる。
 このアイリスの言葉には、何処か縋るような印象があった。波留はそれを嗅ぎ取り、僅かに瞠目した。しかし彼はすぐに目を細める。ゆっくりと瞼を伏せ、首を横に振った。
 ――物事に絶対はありませんから。
 俯き加減に、彼はそんな言葉を漏らす。更に続けた。
 ――これも、単なる時間稼ぎに過ぎないかもしれません。その間に、今後の身の振り方を考えるのも宜しいかと…僕があなたに出来る事と言えば、この程度です。
 早朝の会見にて、波留は書記長に対し「アイリスは僕が守ります」と言い切ったはずだった。しかし現実的に考えたならば、防御壁など対処療法に過ぎない。当代随一のメタルダイバーの能力で時間を稼ぎつつ、他の方法を探るべきではないだろうか――?
 僕は、只のダイバーに過ぎないのだから。
 政治的な判断など下せない。下すに足りない存在だ。
 波留の背後には、いくつものメタルアートが静寂の中で鈍く輝いている。
 
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