閉鎖されているはずの事務所だと言うのに、最近では応接スペースの利用率がすっかり高くなってしまっている。
 給湯スペースにて紅茶を鋳れつつ、波留はそんな感慨に浸っていた。そもそも閉鎖状態のこの事務所に茶葉を始めとした食料を持ち込み、住み着いてしまっている自分を棚に上げるのもどうかと思う。
 パーテーションの合間から、一段高く位置する応接スペースを眺めると、姿勢正しくソファーに腰掛けているスーツ姿の妙齢の女性が垣間見えた。その傍らには公的アンドロイドが立ち、周辺に視線を巡らせている。
 波留の都合で警備用アンドロイドも屋内に迎え入れたとは言え、警護任務を担おうとする態度に変化はみられないらしい。実質上の家主としては何の危険があると思っているのだと問い質したいような心境にも陥るが、アンドロイドは任務遂行において人間の事情など考慮しない。
 やがて、パーテーションの奥から波留は姿を見せる。その手にはトレイが持たれ、その上にはティーセットがある。彼は2人分の紅茶を淹れている。それらのカップからは湯気が淡く漂っていた。
 波留は生乾きの長髪を背中に流している。完全に乾かす事も考えたが、客を待たせるのもどうかと思い、結局そのままにしていた。ガラス状の壁面越しに降り注ぐ朝陽を受け、黒髪に艶が掛かる。
「――ありがとうございます。頂きます」
 眼前のテーブルに置かれた紅茶に、タカナミ書記長は軽く会釈する。優雅な手つきでカップとソーサーを持ち上げ、カップに口を付けた。
 一口飲んだ後、タカナミは口を離す。意外そうな表情を浮かべた。しかしそれも一瞬である。すぐに笑みを湛え、波留に笑い掛けた。
「…美味しいダージリンですね」
「お口に合えばいいのですが」
「このような特技もお持ちだったとは、存じ上げませんでした」
 書記長の笑みは美しいと評する事が出来る代物である。それでいて冷たさは感じさせない。有り体に言えば、政治家として支持者の心を掴むに相応しい笑顔だった。
 当人にとって、特別に演技をしているつもりはない。自然にこのような態度を取れるからこそ、初代人工島プリンセスの座に就いた。更にそれから政治を志し、ここまで上り詰める事が出来たのだろう。
 波留も自らのカップに口を付ける。いつもと同じ味を舌に感じ取った。特に、自分のペースは変わっていない。馴染みのない来客も普通に受け容れている――そんな事を漠然と思った。
 しばしの間、ホストとゲストは互いにストレートで紅茶を楽しむ。空調の音が僅かに空気を揺らす。その間、傍らに立つタイプ・ホロンは微動だにしなかった。
 やがて、タカナミはカップをソーサーに下ろした。白磁がかちりと微かな音を立てる。その仕草と音を合図にしたかのように、波留は口を開いた。
「――御用件をお伺いしても宜しいでしょうか?」
 微笑を浮かべて言いながら、波留はカップをソーサー毎テーブルに下ろす。
「ええ…そうですね。お互い多忙でしょうから」
 タカナミは波留の言葉に応じた。ちらりと視線を落とすと、テーブルに戻されたカップの水位が目に入る。ダージリンは半ばまで残っていて、未だに湯気を漂わせていた。
 書記長はミニスカートに覆われた太股に両手を揃えて置く。眼鏡の奥の瞳には笑みを湛えたまま、言った。
「アイリスと言うメタルアーティストの事は、あなたも御存知かと思います」
 対面する女性の口から放たれたその台詞に、波留は思わず瞠目していた。
 彼は僅かに身じろぎする。酷く狼狽するでもないが、動揺が無かったのかと問われれば違った。彼の思考には様々な疑問が泡のように浮かんでは消えるが、統合すれば「何故彼女が知っているのか」――それに尽きた。この際、「何を」「何処まで」と言う修飾は、二の次である。
 波留は息を吸う。膝の上に両手を合わせた。軽く上体を突き出す。意図を探ろうと、対面者へと問いかけた。
「…イリスではなく?」
「ええ」
 返される答えは簡潔そのものである。それに波留は眉を寄せた。これでは大した情報を得られない。ともあれ、この女性はイリスではなく本当にアイリスを話題としているらしい。
「――アイリスとは何者ですか?」
「あなたなら御存知でしょう?」
 波留は探りを入れようと今度ははぐらかしてみた。が、そんな質問には質問で返されてしまう。相手は笑みすら浮かべ、涼しい態度を取られ続けている。
 これには波留は、どうにも参ってしまった。相手はやはり弁舌を生業としている女傑だった。対話能力ではとても敵いそうにないと判断する。
 黒髪の青年は深い溜息を付いた。敗北を認め、小細工を弄する企みなぞ諦めた。ここは素直に対応しようと心に決めた。
「…何故僕が知っていると、御存知なのですか?」
 波留は静かに問いかける。すると、タカナミは薄く微笑んだ。右手を軽く伸ばし、ティーカップの蔓に指を絡ませた。そのまま持ち上げ、唇を付ける。紅い液体を軽く口に含んだ。
 あからさまに間を持たせる行為である。その間も波留は黙り込んでいた。相手からの答えを待つ他にない。焦れて問いを重ねても意味はなかった。
 やがて、白磁がかちりと音を立てる。女性の指から離れたカップの水位は殆ど無くなっていた。その水面に視線を落としたまま、彼女は言う。
「あなたがアイリスを発見したと、電理研の報告書に」
 それはストレートな物言いだった。繕う事無く真実をそのまま開帳したような印象である。
 それだけに、聞き手が受ける衝撃も大きい。波留は眉を寄せた。奥歯を噛み締める。
 ――何故、彼女が「電理研の報告書」を閲覧している?
 そしてその「報告書」とは、僕が記したあのメタル文書の事なのだろうか?――青年の脳裏にそのような疑問が浮かぶ。
 顔を顰めている波留を、タカナミは見やる。膝の上の手を静かに組み替えた。
「正確を期すなら、あなたが提出した報告書をそのまま拝見しました」
 落ち着き払った口調で、タカナミはそう付け加える。図らずも波留の内心の疑問に答える形となった。最初に衝撃的な真実を与えておいて、それに補足を加えてゆく。論理展開としては理想的な手法と言えた。
「…電理研経由ですか?それとも、別に入手ルートが?」
「その質問にはお答えしかねます」
 平静を取り持っているような波留の問いを、タカナミは今度は交わす。情報ソースの秘匿は守られるべきであり、それを盾とされては波留もこれ以上食い下がれなかった。
 だから、彼は与えられた情報から推論を重ねる他ない。
 電理研に提出した報告書は、電理研の管理下にある。その使い道を、調査したメタルダイバーへ報告する義務など彼らにはない。
 一方で、電理研の運営方針に決定権を持つのが、評議会である。その最高責任者が書記長だった。言わば書記長は電理研の重大な監督者としての身分を有している。そんな人物が、電理研の管理下にある文書を閲覧していても、何らおかしな点はない。
 或いは、あの依頼はそもそも株主が電理研に寄越したものである。依頼を委託されたメタルダイバーが提出した報告書が彼の元に回っていてもいい頃合いだった。その依頼人から件の報告書を借り受けた――その可能性も存在する。
 何にせよ、それらは全て合法である。書記長と言う公的の最高位と評していい立場にある人物が、違法行為に手を染めるだけのメリットは、この一件には存在しないはずだった。
 
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