海洋公園沿いに存在するテナントに、波留はその身を留め続けている。
 土地建物共に、彼の財産ではない。他者のそれを不法占拠している格好になっている。或いは黙認状態なのかもしれなかった。
 ともかく、この事務所はメタルダイバーのための設備がほぼ完備されている。これ以上を求めるならば、それこそ電理研かそれに相当する研究施設に助力を求める他ないだろう。
 そして波留は現状、懸案を抱えている。これを解消するためには、相当な設備を必要とした。それに、この事務所の存在は打ってつけである。使い慣れた機材は充分な性能を有しており、それを彼独りが独占出来るのだから。
 もっとも「懸案を抱えている」のは彼独自の判断である。それを盾に居直り、不法占拠を続けているだけだった。
 ――僕がここに居る事をソウタ君は知っている。それでいてあの依頼を斡旋してきたのだ。何らかの不利益が生じたならば、彼は何時でも僕を立ち退かせる事が出来るし、僕はそれに従うだろう。
 逆に言えば、彼が動かない限り、僕もここを放棄するつもりはないのだ。
 その判断が酷い開き直りである自覚は、波留とて有している。しかしそれを質す心持ちは一向に芽生えなかった。
 この事務所の現状は、そのような状況である。建前としては、入居者なく放置されている事になっていた。
 玄関先には「閉鎖」を意味するCLOSEDの看板が掛けられ、ガラス状の壁面も設定により内部が不可視とされている。閉鎖を知らない依頼人の訪問や宅配業者の誤配を阻止すべく対策は取られていた。
 ――そのはずなのだが、何故か来客は絶えない。
 これまでにも依頼を持ち込んだソウタを始めとして、ミナモまでもが訪れてきている。そして今朝、波留とこの事務所は更に新たな来客を迎える羽目に陥っていた。
「――おはようございます。あなたが、波留真理さんですね」
 最早聴き慣れてしまった来客を伝えるチャイムにうんざりしつつ、玄関先の自動ドアを開けた波留は、そのような第一声を聴いていた。
 その時、波留の長髪は生乾きのままで、肩にはバスタオルを掛けていた。シャツとジーンズはまともに着ていたのが救いだった。
 それも、彼が早朝に起床した後に室内にてストレッチに励み身体を動かし、シャワーで汗を流し去った頃にこの来客があったからである。未だ入居者が無い状態を偽っているが故に、例えば海岸通りを走りに行けないため、彼は室内運動で自らの健康的な肉体を維持しようと試みていた。
 その結果の汗を綺麗さっぱり洗い落とした直後ではあるが、来客を出迎えるべき姿とはとても言えない。相手が同性ならともかく、異性ならば尚更である。
 居留守を決め込む――と言うよりも「誰も住んでいない」のだから、本来ならばそうすべきだった――選択肢もあったのだが、波留はまたあの兄か妹のどちらかだろうと思い込んだ。挙句、確認もせずに出迎えたのである。
 そんな男を前にしても、来訪者の女性は特に動揺を見せてはいない。あくまでも自分のスタンスを崩さなかった。それは、波留の想定のように互いに深く見知った関係だったから――と言う訳では、決してない。
「以前、ここでお会いした事があるかと存じます」
「…ええ、まあ。僕が老人の頃でしたか」
 平静を保ち微笑みを絶やさない来訪者のペースに、波留の戸惑いも徐々に掻き消えてゆく。このような想定外の状況では、相手の雰囲気に呑まれる人間も多いだろう。
 しかし波留は違うタイプだった。自分を見失わず、立ち位置を見定め、その試みに成功している。
 波留が返したのは、常識的に考えたならかなりおかしな台詞だった。青年である彼が「老人の頃」と言い放ったのである。しかしその言葉を、来訪者は穏やかな微笑で受け止めた。
「あれ以来お会いする機会を作れませんでした事を、申し訳なく思っております」
 その女性は波留の前で深く頭を下げる。黒褐色の髪が流れ落ち、頬と目元とを隠した。
「いえ…もう御縁もなかったでしょうから。僕とあなたでは――タカナミ書記長」
 波留の呼び掛けに、来訪者は笑みを深めた。眼鏡の奥の瞳が細められ、僅かに輝いた。
 玄関先に立つスーツ姿の女性が、朝陽に照らされている。その女性の存在は人工島の人々に知れ渡っている。メタルの開発者として世界的な有名人だった久島部長には知名度を譲るにせよ、彼女もまたこの島の統治者なのだから。
 そして彼女は現役の統治者だった。
 そこが、今の久島との唯一絶対の差であるはずだった――あの会見の直前までは。 
 
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