|
「――あの」 ミナモは呼び掛けつつ、調理器のスイッチを切った。ぼこぼこと泡立っていた鍋の液面が緩やかに落ち着いてゆく。湯気に乗ってふんわりとシチューの匂いが漂ってきた。 お玉から手を離すと、金属製の調理用具は鍋肌に接触した状態で中に留まる。内部の野菜類は程良く煮崩れていた。その上から蓋を被せる。隙間からお玉の持ち手をはみ出した状態で覆った。 「折角お電話頂いたんだし、世間話してもいいですか?」 ミナモは携帯端末を両手で抱えるようにして耳元に当てる。努めて明るい声を出し、そんな事を言い出した。 この一件は終わったのだから、電通自体を終えてもいいはずだった。しかし、ミナモは別の話を振ろうとする。このままの状態で通話を打ち切ったら、妙な気分に陥りそうな気がしたからだった。 ――…あら、何か面白い話でもあるのかしら。 若干の沈黙の後、老女がそんな事を語りかけてくる。僅かに笑みを含んだような楽しげな声がミナモの耳に聞こえ、少女はそれに安堵した。 「面白いかどうかは判らないんですけど…」 ミナモは端末を抱えたまま、調理器の前から身を引く。エプロン姿のまま台所を後にし、通路をすり抜けてダイニングスペースに至った。木目のテーブルの天板に片手をつく。 「お姉さん…イリスとかアイリスとかの話って、知ってます?」 ――ああ…何やら騒がしいようね。 果たして、即答だった。 それがミナモには意外だった。話を振った当人ではあるのだが、この老女がメタル内での話題に詳しい人だとは思わなかった。同じ未電脳化者としてはそう考えてしまうのだが、やはり世界的な人物なのだから情報収集を怠らないものなのだろうか? 「お姉さん、御存知だったんですか」 ――ええ。芸術家の端くれとしては、この手の話題は気になるわね。 ミナモの感想に、落ち着いた口調が返ってきた。 ――イリスと言うメタルアーティストが過去に存在して、最近話題になっていた匿名アートがイリス作品か揉めていたら、実は別人の作品だったって話よね?その作者がアイリスってハンドルだと。 「はい」 次いで、確認のように老女が簡潔に話を纏めてきた。それにミナモは頷く。その理解で合っているはずだった。それと同様の理解を、確かサヤカやユキノも持っていた。 ならば、メタル内に存在している「噂」とは、そんな話と言う事になる。例えば、アイリスやイリスのリアルにおける正体は明らかになっていないのだろう――。 ――私は未電脳化者だからメタルアートの体験は出来ませんからね。イリスだかアイリスだかの芸術作品としての評価は無理だけれども。 静かな声で老女はそう付け加えてきた。その前提は、ミナモも同様である。メタルアートとはメタルを利用可能な状態で鑑賞する芸術品なのだ。必然的に、その対象者には未電脳化者は一切含まれていない。 だからミナモは、イリス――リアルではエイミと言う名の少女の芸術家としての側面を全く把握していない。「素晴らしいメタルアーティスト」との評価はあくまでも他者からのものである。 そもそもエイミのアーティストとしての能力以前に、ミナモは彼女の事を「同級生」として認識し、友人になっていただけだった。そしてエイミがイリスと知らない同級生達も同様のはずである。 ――噂になっている割には、イリスもアイリスも一貫して、自身は全く姿を見せないらしいわね。 「…そうみたいです」 老女の声にミナモは頷いた。彼女にしてみれば、半分は事実であり半分は推測である。イリスのリアルは知っているが、アイリスの事は殆ど知らないのだから――それこそ、メタルアートすら体験出来ない未電脳化者としては。 ――だから、話題を提供して充分に場が暖まってから満を持して登場するつもりと…まあ、売名行為みたいに悪く言う連中も居るみたいだけれど。 そこでミナモは、はっと顔を上げる。「売名行為」との言葉に、あからさまに反応する。 それは手厳しい言葉で、あまりいい印象を受けない。明らかに批判や非難のための言葉だった。そんなものを、件のアーティスト達の評価へと用いる人々が居る。それを悟ったミナモは、アイリスはともかくイリスを知る者としては、あまり良い気分にはなれなかった。 「…お姉さんは、違うと思いますか?」 ――真相は判らないわよ当然。彼らだか彼女らだかの人となりを、私は一切知りませんから。 老女はミナモの問いかけをさらりと交わした。その印象に、問いかけた側はまるで勢いを制されてつんのめったような心境に陥った。 とは言え、老女には無責任な事は言えないのだろう。根拠なく断じてしまえば、それはメタル内での無責任な評論家達と変わらないのだから。 ――けれど…そうね。どう言えばいいのかしら…――。 そう言い掛けたまま、老女は口を噤んだ。何かを語ろうとしているのだろうが、その内容を脳内にて纏め直している様子だった。 未電脳化からの電通らしく、ミナモの耳元には吐息や唇を湿らせるような音が微かに聞こえている。少女はそれを耳にしたまま、静かに次の言葉を待った。口を挟もうとはしない。 ――…芸術家が全員表舞台に立ちたがってる訳じゃないのよね。孤独を愛する者も居るだろうし、作品を世に送り出した時点で完結してしまう者だって居るわよ。 やがて、老女は語り始めていた。纏まった考えを外部へと吐き出し、その先にはミナモが居た。彼女は遥か彼方の人工島にて、その全てを個人的に受け止めている。 ――全員が全員、賞賛を欲している訳じゃない。「売名行為」とか言ってる連中は、結局は自分の底を無様に晒しているだけでしょうね。 「…そうですよね」 老女の台詞が途切れた後、ミナモは頷いた。彼らの意見を否定して貰い、安堵する。 実の所、この老女の弁は「連中」に対してかなり偏ったバイアスを込めての厳しい評価を下している。しかし少女としては、それに同調したかった。リアルにて付き合いを持っていたイリスを悪く言う人々を認めたくはなかった。 それは子供っぽい感情なのだろう。彼女自身、そんな自覚はあった。だが根拠無い悪評など、受け容れ難かった。 「お姉さんは芸術家だから、そのイリス達の事を少しは判ると思いますか?」 ――さあ…散々申し上げてる通り、確証は持てないわよ。連中が真実を言い当てている確率だって、ゼロじゃない。 尚も食い下がってみたミナモに対し、老女はこの論点についてはあくまでも客観的な態度を明らかにしない。そのスタンスを一向に崩そうとはしなかった。 「同じ芸術家だから、私みたいな一般人よりは判るんじゃないかなって」 ――どうかしら。正直言うと、無理矢理同じカテゴリに収められても困るのよ。芸術への想いや捉え方なんて、人それぞれですもの。 ミナモの問いに、またしても意外な答えが返ってくる。それに少女の思考は立ち止まった。一体どういう意味なのだろう?それを自分なりに翻訳するために、少女はまた問いかけた。 「踊りと絵は違うとか、そう言う事ですか?」 ――そうねえ…どう言えば判って貰えるかしら…。 少女の口から挙げられた具体例にも老女はしっくり来なかったらしい。言葉が途切れた後には考え込んでいるようだった。しばしの沈黙がふたりの電通回線の間を満たした。 ――…私にとって、踊りとは生きるために必要な事なの。体力的に厳しくなった今は全てを踊る事は出来なくなったけれど、それでも踊りは私の血と肉と成り果てているのよ。 やがて老女はそんな風に滔々と語り出す。それにミナモは耳を傾けた。携帯端末を耳に押し当て、一言も聴き逃さないよう心掛ける。自分なりの解釈を見出そうとしていた。 ――波留真理にとっての海もやはり、彼が生きるためには必要な存在なのかしら? 「え?」 そんな中、老女の台詞の中に登場した別人の名前に、ミナモは反射的に怪訝そうな声を上げていた。 何故いきなり、彼の話題が出てくるのだろう。とても唐突な響きを有するその名に、少女の心中には少しばかりの混乱が巻き起こる。 ――彼に近しいあなたには、そちらの喩えの方が判るかもしれないわね。 だがミナモの戸惑いの声を、老女はさらりと流した。彼女にとっては自明の理を語ったつもりらしい。それ以降も言葉は滑らかに続いていった。 ――彼にとっての海と、私にとっての踊りと…イリスやアイリスにとってのメタルアートも、おそらくはそれぞれに掛け替えのない大切なものなのでしょう。けど、我々が同じ感覚でそれぞれに対峙しているとは限らないんじゃないかしらね。 その時点で、老女は口を噤む。それ以降に言葉は続かない。どうやら語り尽くしたつもりのようだった。 ――そう言う訳なのだけれども…ミナモさん。お判り頂けたかしら? やがて老女は確認のために問いかけた。自分の意図が通じたのかを把握しようとする。 「うーん…」 その問いに、ミナモは視線を上向かせた。携帯端末を耳に押し当てたまま、首を捻る。電通でもなければアバター通信でもないために誰が見ている訳でもないのだが、非常に判り易い態度を取っていた。 「判ったような判らないような…」 要領を得ない感想が、中学3年生の口からぼそぼそと漏れる。つまりはどちらなのかと問われても仕方がない答えなのだが、彼女なりに正直に吐露した結果がこれである。 途端、少女の耳元にくすりと笑う声が聞こえてくる。電通相手から、思わず笑みが零れていた。老女が堪えきれなかったにせよ、失笑ともまた印象が違う。上品な笑い方だった。 ――本当、正直なお嬢さんね。 「…ごめんなさい」 ミナモは素直に謝罪の意を表していた。だからと言って老女に馬鹿にされた気分でもない。相手側も素直な感想を漏らしただけなのだろうと解釈している。 ――いえ、別に構わないわ。形を持たない概念を他者に伝えるのはこの上ない困難を極めるのだから。 そう言い募る老女の声色に、諦めめいた響きは一切存在しない。世の中の摂理を語っただけのような印象だった。 ――だから――芸術家って、大変なのよ。 最終的にこの舞踏の大家は、とても単純な感想を漏らしている。ミナモはその言葉に、全てをひっくるめられてしまった印象を持つ。 しかし反駁する根拠もないし、必要性も感じない。判ったような判らないような状況のまま、人生の大先輩にして「お友達」との電通は終了していった。 その頃には、鍋の中のシチューは若干冷めてしまっている。それとて、ミナモの中では失敗と言う訳でもない。温め直せば済む話だった。 |