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人工島の夕方の時間帯は、世界的には遅い。夕陽が水平線の下方へと沈んでゆくと、空も海も紅く染まって行った。 蒼井ミナモは自宅の台所に立ち、コンロに向かっている。そこに掛けられた鍋を掻き混ぜていた。顔に当たる湯気には、調理途中の料理の匂いも漂っている。 それを嗅ぎつつも、少女は次の手順を脳内にて反芻していた。彼女が料理を始めとした家事全般に取り掛かってから、早5ヶ月である。その手順を既に手慣れたものとしていた。 そもそも多少失敗しても、犠牲を被るのは彼女自身か、悪くて兄と父である。その中でも父はともかくとして、兄は別にいいか――少女の中にはそんな都合の良い考えもあり、特別な緊張感もなかった。 そんなルーティンワークの最中に、電子音が鳴り響く。その音はテーブルの上から聴こえており、ミナモは台所作業中にはいつもそこにペーパーインターフェイスを置いていた。 たまに着信する電通に対応するためである。そして今回もそうだった。慌てる事無くミナモは右手を伸ばし、鍋から視線を外さないままテーブルを片手で探る。存在を主張している端末を握り、手繰り寄せた。表示されている通話ボタンを画面を見ずに押し、耳元へと導く。 結果、ミナモはこれが誰からの電通かも確認していない。着信音設定は特にいじっていなかった彼女には、着信画面に表示される名義を見ない事には誰からの電通なのかは判らなかった。 「――はい」 鍋に煮込まれているのは、変哲もないシチューである。大きく刻まれた野菜が転がる液体を掻き混ぜつつ、彼女は短く応答した。 ――…ミナモさん。今、大丈夫かしら? 一拍置いて少女の耳に届いたのは、嗄れた女性の声である。それは彼女の祖母よりも更に年齢を感じさせる声色だった。それでいて枯れ果ててはおらず、凛とした印象が強い。おそらく若かりし頃の印象が未だに内面から消え去っていないのだろう。 ともかく、ミナモにはその声が誰なのか、すぐに判った。途端、明るい声が彼女の口からついて出てくる。 「――お姉さん!」 実はミナモが「お姉さん」と呼ぶ相手は複数存在する。広義的にはそれは「自分より年上の女性」に用いられる表現であり、彼女の場合はその対象を公的アンドロイド達にも広げていた。電理研を訪れた際、受付用タイプ・ホロンに「お姉さん」と呼び掛けるのは、社会科見学の幼児を除けばミナモ位だろう。 それはさておき、今回の場合においての「お姉さん」とは、実際に「姉」だからである。 とは言え、ミナモの姉と言う訳ではない。彼女は別人の姉だった。そしてその「別人」がまた別の意味で、一般人にとっては気軽に名を呼べる対象ではない。しかしミナモにとっては、その姉も弟も充分に「お友達」だった。 現在の通話相手の名は、久島のぶ代と言う人物である。 齢90を越えた彼女は日本舞踊の世界を極め、世界にもその名を知られている。 その一方、別の意味でも彼女の存在を念頭に置く人々が居る。この場合においては、舞踏家としての偉大さはともかくとして、その弟の存在が人々の中では大きく扱われるものだった。 彼女の弟は日本の独立行政法人だった頃の電理研メンバーとして人工島建設に携わり、メタリアル・ネットワークの創始者でもある。つまり「電理研の皇帝」にして「人工島の神」――久島永一朗そのひとだった。 そんな姉と弟の肩書きは、ミナモの前では意味を成さない。あくまでも歳の離れたお友達としての対応が徹底されていた。おそらく少女の中では「歳の離れた」と言う意識すら欠落しているだろう。 「あ、大丈夫ですよ。自分の家ですし」 右手で端末を耳元に寄せたまま、ミナモは左手のお玉で鍋を掻き回している。焦がさないように心得つつ煮込んでいた。野菜混じりの液面がごぽごぽと泡立っている。 ――あらそう。じゃあお言葉に甘えて、気にせずお話するわ。 携帯端末内蔵のスピーカー越しに聴こえる老女の声は鮮明である。彼女の方にも、歳の差を鑑みての遠慮らしきものは存在していない。それでも礼儀を逸するような真似は、互いに行わない。良い友人関係を築き上げていた。 ――この前の電理研の会見、拝見したわ。 しかしミナモは、この台詞に鍋を掻き混ぜる手を止めた。沈黙し、湯気を顔に当てるに任せる。そんな彼女の耳には淡々とした老女の声が届く。 ――遠い日本の地にて拝見したんだけれどね。久島の姉である私には、現在に至るまで一切の連絡がないのよ。 この老女はミナモ同様に未電脳化者である。電脳化が普遍化する以前から生きているとは言え、長い人生を電脳化なしで貫き通している。 そのため今の電通も、ミナモのようにペーパーインターフェイスを用いているはずだった。メタルを介して発信される動画情報も携帯端末かTV状のモニタを通して視聴する他方法はない。それでも情報は得られるのだから、大して不便でもない。 ――あなた、何か御存知? 久島の姉の言葉は単刀直入だった。しかし問い詰めるような印象でもない。 それでも、ミナモは彼女に何も答えられない。 この少女はいくつか公的な立場を擁している。「人工島中学校3-A」「兄は電理研統括部長代理」「父は電理研職員」――それらの極普通の人工島島民の子女の立場に紛れ、「久島のぶ代の人工島における名代」と言う地位に任命されていた。 それは当人間の取り決めであり、色々と関与しなければならない電理研や評議会にも認知されている。老いている久島のぶ代は、そう簡単に人工島まで足を伸ばせない。そして未電脳化者である以上、メタルを介しての情報収集にも限界がある。 だから、人工島にて起こった事を、ミナモは彼女に伝えなければならない。それをこの老女が望むなら、尚更だった。 しかし、どう伝えていいものか――そこが少女には全く見当が付かない。 ――久島部長がブレインダウンから意識を復帰させ、電理研を勇退する意思表示をした。その自らの後任には、現時点まで部長代理を勤めてきた蒼井ソウタを推薦している――その筋書きの元、あの会見は行われた。 そして殆どの島民がそれを信じているはずである。殆どの島民は、隠蔽されてきたあのAIの存在を知る由もないのだから。 「彼」の存在を知るのは、当初は両手で数えられる程の人数だった。そして例の病棟占拠事件を経た後には、関わった幾人かが追加されている。その全員には箝口令が敷かれたも同然の状況である。実際に口止めされている人間も多いはずだった。 蒼井ミナモと言う名の少女は、その存在を知る一握りの人間のひとりである。そしてこの老女も秘密を共有する一員だった。 あの会見後、ミナモは「久島」と出会っている。その義体に宿る意識は久島当人ではなくAIのままだったと確認していた。だから、今まで存在していたAIを差し置いて久島当人が復活した訳ではないと、彼女は知っている。 しかしその一方で、少女はその真実を不用意に語るつもりはない。それは、あのAIに直接言い含められているからでもある。更には以前にやってしまった手痛い失策から学んだ事でもあった。 ミナモは何もこの老女を信用していない訳ではない。むしろ、信頼しているからこそ、余計なごたごたに巻き込めない気がしていた。 気付いた頃に、ミナモの耳元に長い溜息が聴こえてきた。どれだけの時間、思惟に浸っていたのかは彼女自身には判らない。ともかく少女の沈黙を破るように、その静かな呼気の音が響いてきた。 ――…ミナモさん。 次いで、静かな声で名を呼ばれた。ミナモはそれに端末を頬に当てた状態でそのまま頷き、相槌を打ち返事をした。先を促す。 ――まあ、私に連絡を寄越さないと言うのも、久島らしいわね。 果たして老女から寄越されたのは、そんな台詞だった。 何処か呆れたような声色で言い募っている。まるで世間話のような響きだった。その「呆れ」はミナモに向けられたものではなく、台詞内に出てきた人物を対象としているのだろう。 その言葉を耳にしたミナモはきょとんとする。少女にとっては予想外の話の展開だった。 これではまるで、この人は「久島さん」が本当に目覚めたものだと信じているようではないか――確かに久島の実姉がそう信じてくれていれば、全てが丸く収まるには違いない。「秘密」を守り沈黙するミナモとしても、発表を行った電理研や評議会にしても。 「…あの」 ――全くもう…事故の時もそうだったのよね。私はともかくせめて両親には状況を報告すべきだったでしょうに。本当に情の薄い弟だわ。 老女のうんざりとした口調が、遥かな日本の地から人工島のミナモの耳元へと届いてくる。お互いに未電脳化者であるために、電脳から直接囁くような声ではなく端末を介してるはずである。しかし、ミナモには老女の感情が良く伝わってくるような気がした。 或いは、伝わり過ぎなのかもしれない。やけに表現過剰になっているような――。 ――ミナモさん。 呼び掛ける老女の声がミナモの思考を遮った。その声色がやけに凛としていたからである。今までの愚痴めいた口調とは一線を画している。実際に対面して会話していると仮定すれば、背筋を伸ばして改まったような印象だった。 そんな相手の声に、ミナモも自然に姿勢を正す。身じろぎし、端末を持つ手を動かした。 その時、鍋の液面に視線が行く。随分と掻き回していない事を想い出した。 とは言え短時間なのだからそう簡単には焦げはしないだろうが、それでも熱に晒され続けている底面部分が心配になる。少女は慌ててお玉を動かし、深く差し込みシチューを掻き混ぜていた。 そんな耳元に、声が届いた。 ――あなたに御迷惑をおかけする訳には参りません。 老女から寄越されたのは、丁寧な口調だった。それにミナモの手も止まる。煮詰まった液体がお玉に絡んだまま静止する。 ――今回の一件、良く判りました。とりあえず、私は先方からの連絡を待つ事にします。 老女の結論付けるような声が携帯端末から響いてくる。ミナモはそれを黙って聴いていた。 この久島の姉は、あの会見には何らかの裏があると気付いているのだろう。 何せ今の自分は、人工島の支配者層に、口煩い久島の身内として疎まれている。そして今回の会見から、身内であるはずの自分は締め出された。 いくら久島自身の気が利かないにせよ、今の彼の立場は過去と比較するには大き過ぎる。身内に連絡しない事で生じるデメリットを鑑みれば、いくら気が進まなかろうが自分に連絡するはずである。 それがないのだから、事は単純ではない。少なくとも、久島の自由に出来ない事態が生じているはずだ――それだけの推測は、限られた情報のみでも充分に可能だった。 だからこうして、名代に連絡してきたのだ――真相を知りたいがために。ミナモはそう思う。 しかし、現状の「お姉さん」は、自分を問い詰める素振りを見せなかった。最初に質問を投げ掛けたきり、まるで会見を肯定するような明後日の方向へと理解を示していた。 だが、ミナモのその疑問も、このやり取りで氷解した。 「…はい。それでお願いします」 ――気を遣って貰ったのだ。 私を問い詰めて情報を引き出すよりも、私を大切に思ってくれる方を優先したのだ。このお姉さんは、そういう人だ。 むしろ、この事件に巻き込まないようにしてくれたのは、お姉さんの方なのだ――。 その自覚はミナモにもあった。だから静かに礼の言葉を述べるのみである。自然に応対する事で、この話題への幕引きを図った。それが老女から求められた言動なのだろうと考える。 ふたりの間ではこの一件を終わりにする。それが互いのためだと思った。 ――AIさんも、あの時似たような事を言っていたっけ。 ミナモはふと、そんな事を想い出していた。 |