数日振りにメタルダイブした波留は、調査用ダイアログとウィンドウに囲まれたまま、その不在期間の重さを思い知っていた。
 先の調査時点から目星をつけて監視対象としていたアート系のメタルコミュニティの全てにおいて、あの匿名メタルアートが「イリス」ではなく「アイリス」の作品であると語られていたのだ。
 それは根も葉もない噂ではなく、まるで根拠がある事実であるかのように扱われていた。その事実はアート界の新たな常識として位置付けられており、誰が最初に語り始めたのかを辿ろうにも難しい状況だった。権威ある重鎮らしきハンドルも、初参加のハンドルも、同様にその事実を語っているのだから。
 ここまで事実として広まっているとなると、発生源を特定する意味は無くなってしまっている。特殊なメタルコミュニティに属する人間は、通常の社会にも属しているものである。そしてアート系の話題は、特に一般社会で伏せる必要性も薄い。となれば、参加者の中の誰かの口から、一般人へとこの話が流れていて然るべきだった。そうやって一般化されてしまえば、爆発的に広範囲へと噂とは広まってゆくものなのだ。
 果たして、アート系コミュニティにおいても、如何にも素人らしき人物達も議論へと参加していた。彼らも、元からの愛好者達も、好き勝手に言い散らかしている。
 真贋論争に決着が付いた今、次の議題は「アイリスの実力」である。
 「彼」に実力はあるのだろうが、所詮はイリスの模倣から始まっている作品である。そんな人物に、オリジナルを生み出す余地はあるのか?或いは模倣であっても、素晴らしい作品との評価は変わらないのか?
 そもそもここまで騒ぎになっているだから、そろそろ本人が現れてもいいのではないか?匿名で作品を発表して真贋論争まで巻き起こしているのだから、今から考えたらいい売名行為だ――。
 ――そんな会話が巻き起こっているあちこちのコミュニティをチェックしている波留の気持ちは、地に落ちていた。本気で気分が重くなる。アイリスの事情を考慮していない、酷い状況だった。
 そしてその酷さの根源は、自分自身の調査結果なのだ。
 結局どうやって漏洩したのかは、判っていない。ざっとログを眺めた限り、件の依頼者が何かを言い出した痕跡は見出せなかった。
 だが、そんな調査をしている暇はない。波留としては、アイリスの保護を最優先とすべきだった。それで責任を取れる訳でもないが、これ以上の第三者からの暴虐を留めるべきだった。
 メタル内に噂が蔓延するまでがこの3日間とすれば、そろそろメタルダイバーやクラッカーが悪さを仕掛け始める頃だった。
 好奇心や巧妙心、或いは誰かからの依頼で「アイリス」の正体を探ろうとする人々が顕在化してくる可能性は非常に高い。むしろ波留自身もそうだったのだから。
 そして今現在、その企みを果たした人物は、波留以外には存在していないようだった。少なくとも、メタル内でその噂は感知されない。
 しかし、猶予はないだろう。たくさんの人間が関われば、それだけセキュリティが突破される可能性は高まる。或いは単純に、古今東西人探しには人的リソースが多大な寄与となるものだった。
 決意した波留は、すぐにメタルの海を泳ぎ始める。彼の電脳に座標が保持されている、アイリスの「アトリエ」メタルへ向かった。
 あのメタルへ辿り着いた際、波留は「蒼い石」の発光現象によって盲目状態に陥っていた。そして「アトリエ」自体には「盲目者」のみにログイン権限が与えられていた。
 そのため、現在の健常者状態の波留が訪れてもログインは出来ないだろう。ステータスを改竄すれば可能かもしれないが、今の彼にはそこまでする気はなかった。ともかく外観のみでも眺める事が出来る座標に辿り着けば良かった。
 当時の彼は盲目状態だったが、メタル内の絶対座標だけは把握出来ていた。そのログが今も彼の電脳には残されており、それに従って該当メタルへと向かっている。
 そこそこに長い道程だったが、波留は該当座標を辿り到達する。そこに至るまでにちらほらとメタルダイバーや思考複合体は見かけたが、通常範囲の遭遇率だった。どんな場合においてもメタルの海で宝探しに興じるダイバーや、腕試しの機会を見いだしたりする技術者は存在する。しかし、波留と同じような目的で漂っている存在は居ない様子だった。
 その座標を波留が以前訪れた際には盲目だった。だから「アトリエ」メタルの外観を眺めるのは、今回が初めてとなる。
 とは言え、他のメタルとは特別変わった事もない。通常のヘクスパターンがメタルの海に浮かび上がっている状態だった。内部から何らかの思考が漏れてくる事もない。只そこにゲートが存在しているだけだった。
 ゲートの前に漂う波留は、右手をかざす。バイザーの奥で瞼を伏せた。しばし動きを止め、沈黙する。その後、彼の電脳に浮かび上がるダイアログのメニューを選択した。
 瞬間、彼の右手の掌から淡い光が走る。その光は徐々にメタルの海水へと伝播してゆき、光の粒が降り注いだ。
 その方向には「アトリエ」へと続くゲートが存在する。まるで霧雨のように光の粒子がそこに届き、覆い隠してゆく。海水が粒子の光を帯び、海が光に置き換わったような光景が広がって行った。
 ゲートのアドレスに向き合っている波留のバイザーが光に照らされる。彼の瞼は閉ざされたままだったが、ゲート全体に光が拡散した時点で薄く瞼が上がった。伏し目がちに彼は見透かすように目を細めた。バイザー越しに、彼の瞳に光が届く。
 光量が徐々に増してゆき、波留の瞳を光が満たしてゆく。それに怯む事無く、彼は両眼を開いていた。冷静な視線を送り続ける。
 海の一帯に光が満ち、ゆっくりと拡散してゆく。その光が徐々に収まって行くと、海は再び落ち着きを取り戻した。
 現在、波留の眼前には深い海が広がっている。掲げた右手を静かに下ろした。冷静な瞳をその海域へと向ける。
 メタルの海水がゆっくりと漂って海流を成している。見るからに通常状態だった。
 先程までそこに存在したはずのゲートが消失していた。目視で発見出来ない状態であり、電脳を用いても何の反応も見出せない。
 
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