|
その文章において、言葉は圧倒的に足りていない。その1文のみを勘案しても、筆者が言いたい事は全く判らないだろう。 しかしその文章を読み送信者を把握した波留は、先日のミナモとの会話を連想するに至る。筆者たるミナモが言わんとする事を理解し、その先に生じる疑問と矛盾とに思いが至った。 ――何故、ミナモさんが、それを知っている? 今、波留の心中に木霊しているのは、そんな問いである。 彼は別にミナモを除け者にしようとしていた訳ではない。ミナモが事務所にやってきた際にその依頼について話してしまった以上、いずれは顛末も伝えるつもりだった。 ミナモは、単に聞き役に回ってくれただけではない。波留は彼女から助言を貰っている。そしてイリス――エイミの遺留品とも表現出来るペンダントに触れさせて貰い、それを手がかりとして真実に辿り着いたのだ。感謝の気持ちに堪えない。だからお礼を込めて次の休日に誘い、その席で語ろうと思っていた。 今までにその機会を作っていなかったのは、単純に暇がなかったからである。何せ報告書を電理研に提出したのも、僅か3日前の出来事なのだ。その間にも彼にはダイビングショップの仕事を抱えている。全くのプライベートであるミナモとのデートのセッティングを後回しにしても責められるものではなかった。会えないならばメールや電通と言う手段もあり得るだろうが、彼らにはその手の習慣がなかった。 ともかく、波留自身は先のイリス事件の顛末について、未だミナモに語っていない。 しかし、このメールの口振りでは、どうやらミナモは顛末を知っているらしい。この事件を調査していたのは波留であり、電理研の依頼を受けての事だった。その調査報告は3日前に行ったばかりなのだから、事実の一般化は成されている訳がない。 ――だというのに、どうして一般人のミナモさんが知っているのだろう。 厳密に言えばミナモは電理研職員の身内である。しかも、その兄が波留へと件の依頼を寄越していた。しかし守秘義務が存在する以上、兄が妹に依頼内容とその調査結果を漏らすはずがない。だから、そのラインで情報が漏れたという可能性は否定すべきだった。 先の「イリス捜索」の案件にて波留が掴んだ事実はいくつか存在する。 ひとつは、「あの匿名メタルアートは、イリスの作品ではない」と言う事実である。該当するメタルアートを作成した当人がそう証言し、波留が集めた状況証拠もそれを裏付けている。 この件については、当初から各所のメタルコミュニティでは真贋論争が繰り広げられていた。そもそもあれをイリスの作品だと思っていなかった人間も、無視出来ない程度には存在していた事になる。だからこの噂が広まっても問題ではない。 問題なのは、波留が掴んだもうひとつの件――「そのメタルアートの作者はアイリスと名乗る人物」と言う事実を、何故一般人が知っているのか? この件については真贋論争とは趣が異なる。アイリスなどと言うハンドルネームは、波留があの作者から訊くまで一切メタル内に浮かび上がってきていない。波留のみが掴んだ事実のはずなのである。 それがどうして、他者に漏れているのか? 「アイリス」自身が変心し、メタル内で名乗りを上げた――と言う可能性は著しく低いと、波留は判断する。あの盲目者しかログイン出来なかったコミュニティでのやり取りを思うに、あの人物は人前に出たがってはいなかった。波留は説得しようとした立場だが、それ故に「アイリス」の頑なさを思い知っている。 一方で、彼が電理研へ提出した報告書の中では、確かにその名を記載してはいる。しかしそれを閲覧出来る人間は、この短い間では然程存在しないはずである。それこそ、回答を待ちかねていた依頼人辺りしか――。 そこまで思考が至った時点で、波留ははっとする。 ――まさか、依頼人が先走ったのか? そう考えれば、彼としては合点が行く。 依頼人は「イリス」のパトロンになりたがっていた人物である。そして「アイリス」は、イリス同様に才気溢れる人物である――報告書にはそう記載されていた。客観的事実として、波留がそう記したのだ。 件の依頼者はイリス作品に然程思い入れが無く、政治的意味において「パトロン」と言う地位こそを求めているのならば、彼の援助対象がイリスだろうがアイリスだろうがさして変わりはないだろう。とにかく将来有望な芸術家を支援したとの地位を得たいだけの打算なのだから。 或いは、真に芸術を愛する人物ならば、イリスではないまた別の才能を発掘した事に興奮を覚え、何が何でも援助を申し出たくなるのかもしれない。正しい意味でのファンとの立場からのパトロンである。 そのような熱意とは、前述の打算と異なりコントロールを失いがちとなる。だから、こちらの方が数段性質が悪いかもしれない。 依頼者の立場がどうあれ、アイリス側からコンタクトを取る意志はない。しかしこのパトロン希望者側はコンタクトを取りたい。 となれば、依頼者がメタル内にて声明を発表し、翻意したアイリスが名乗り出てくる可能性に賭けてみたくなる――。 ――その手法はあまりにも無謀であり、アイリスの信条を全く考慮していない。自分勝手な暴走だ。 波留はそう思う。表舞台に立ちたがっていない人物を、どうして引っ張り出そうとするのか?良かれと思ってやっているにせよ、当人は嫌がっているのに――。 波留としては、その手の意見書を添付したはずだった。請けた仕事なのだから、アイリス発見の調査結果は提出しなければならない。しかしアイリスの意志を尊重したかった彼は、パトロン志望の意志を婉曲的に挫くべく文章をしたためておいた。 どうやら、そんな彼の意志はパトロン側には勘案して貰えていないらしい。 意見書を読んだのに、無視されたのかもしれない。所詮は調査人の個人的感想なのだから、それに惑わされなくともおかしくはない。 或いは、電理研側が意見書をパトロン側に回さなかったのかもしれない。メタルダイバーの意見を依頼人に伝える必然性など、そもそも仲介者には存在しないだろう。 ともかく、今の波留が把握しているのは、ミナモからのメールの一文のみである。それ以降は、彼の脳内で展開された推論にすぎない。 現状把握のために、彼はメタルの噂を調査しなければならないと考える。 今そこで一体何が起こっているのか?数日留守にした間に何があったのか?――それを理解しなければ、今後の身の振り方を考えられないだろう。 だが、波留としては非常に気が重い。 もしアイリスが多大な不利益を被っているとすれば、それは自分のせいなのだ。明らかに、自分の調査結果から全てが始まっているのだろうから。本当にアイリスが翻意して世に出てくると言う可能性は、九分九里存在しないだろうから。 |