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人工島の空では陽が傾きつつある。 海岸公園の一角に位置するダイビングショップ「ドリーム・ブラザーズ」のハーバーにはボートが係留されている。穏やかな波が船体をゆったりと揺らし、眩しい陽光を海面が弾いていた。 今日は日曜であり、この店でも客を迎えてレジャーダイビングを行った。昼間の一番いい時間帯にダイビングポイントへと向かい、常夏の海中を満喫して貰った上で岸へと戻っている。 今はショップ内にて店員がダイビング後のもてなしを行っている。シャワーを提供して身だしなみを整えた後、程良く暖まるように紅茶を淹れて出す――それがこのショップの恒例サービスだった。 厳密にはこのサービスを提供可能な店員は1名しか居ないのだが、現在ではその1名が全面的にこのショップを切り盛りしている。店主兄弟は彼を信頼し、面倒事を全て任せてしまっていた。そもそも彼がこのショップに関わる用になって以来、彼を目当てに来店する客ばかりになったのである。需要と供給が見事に一致した末の、当然の結果だった。 その店員たる波留真理が提供する紅茶やコーヒーの味は格別で、ダイビング後の無料サービスとは思えない状況だった。むしろ喫茶店を充分に開けるのではないかとの客の評価を良く貰っている。もっとも、現状のこのショップの利用客の8割は女性で占められており、彼女らからの多少の贔屓目はあるのかもしれない。 12月を迎えた今週の日曜でも、波留は3名の女性客を受け容れていた。 北半球の世間は冬だが、人工島の気候は常夏である。人工島の住民ではなく外部からダイビング目的で訪れる観光客も増えつつあるようで、予約状況はむしろ秋よりも好調だった。 更に波留目当てのリピーターも日程に割り込みを掛けている。このままの客入りのペースが続くとなると、平日も連日開店すべきだろうかとか、フジワラ兄弟にも本格的に復帰して貰うべきかとか――波留としては色々と考えざるを得なかった。 しかしフジワラ兄弟の助力はあまり期待出来ない。年末を迎えるに当たり、電理研の業務も忙しくなりつつある。その仕事を委託するメタルダイバー達も、その影響を受けるだろうと思われた。 となると、暇な自分がこの店を切り盛りする他ないだろう。安心安全を心掛け、楽しいダイビングを提供出来るように気を引き締める事にした。 「――波留さん、今日もありがとうございました!」 お茶のサービスを終えて体力的にも落ち着いた頃合いに、波留は客を送り出す事にしている。 今日の客たる3人組は、彼がこの店に入り始めて以来の常連の女性客達だった。次回のダイビング予定も既に入っている。 「いえ…皆さんに海を楽しんで頂ければ、僕としては嬉しい限りです」 客達の笑顔に店員が爽やかに受け答えると、女性3人組は笑って顔を見合わせて楽しそうな声を上げる。その様子も波留は特に気に止めず、微笑んでいた。 「波留さん、最近はお忙しいんじゃないんですか?」 女性のひとりからこんな話を振られた波留だったが、そんな問い掛けは彼には手慣れたものだった。事実と共に営業トークを織り交ぜて対応してゆく。 「そうですね。年末に向けてお客さんが増えてくるようですから、今後の御予約もお早めに入れて頂けるとありがたいと思っています」 「いえ、そうじゃなくて」 「え?」 どうやら彼が想定していた話と違ったらしい。その事態を把握して怪訝そうな顔をする波留の前で、女性グループが顔を見合わせて相槌を打ち合う。そしてひとりが彼の方を向き、言った。 「久島部長がお元気になられたし、波留さんも電理研に戻らなきゃいけないんじゃないんですか?」 彼女のその発言に、波留は口を半ばまで開いたまま固まっていた。 黒髪の青年の前では、女性客達が楽しそうに笑っている。きっと彼女らにとって、その報告はとても喜ぶべきものなのだろう。 波留真理と言う人物は久島部長の親友であり、懐刀のメタルダイバーだった――その事実は、一般ベースの報道に乗っている。特に現時点の島民にとっては、最早一般常識だった。 ――その久島が回復したのだから、波留も嬉しいはずだろう。こんな所で油を売っている場合ではなく、親友の元へ喜んで馳せ参じたいのではないだろうか?――あの会見から一昼夜が明けた今、そう言う推測が成り立つのも当然の話だった。 波留もそれを悟った。それと同時に、彼の茫然自失も数秒間で終わりを告げる。 すぐに彼は口元に笑みを浮かべる。若干、困った印象を漂わせつつ、言った。 「いやあ…彼は彼で忙しいでしょうしねえ…」 何処か困惑気味な印象を与えてくる波留の言動に、女性客のひとりはその意を汲んだように頷いていた。彼女の中では何かに納得したらしい。 「そっか…久島部長、電理研辞めるんですっけ」 その女性はそう言いながら瞼を伏せ、何度も頷いている。その周辺でも、同じグループの女性達が顔を見合わせた。 「――そういや、そんな事言ってたね。あの会見で」 「じゃ、もうじき電理研の人じゃなくなるんだ。何だか実感ない」 「私達が生まれた頃から、あの人はずっとあの姿で部長だったもんねえ…」 波留の前では女性客同士が口々にそんな事を言い合っていた。その態度に、彼は目を細める。僅かに呼気を漏らした後、笑みを絶やす事なく口を開いた。 「――仰るような状態ですから、僕が彼と顔を合わせるのは、もうちょっと状況が落ち着いてからにしようと思っています」 「大変ですね。すぐにでもお会いしたいでしょうに」 「まあ…彼の仕事は山積みですから」 気遣うような女性達の視線を3名分受け止めつつ、波留は困ったように微笑んでいた。傾きかけた陽光のせいか、それは何処か影を帯びた表情になっている。その印象に、女性客達は内心に今までとは別のときめきを覚えていた。 そんな彼女らの心境など、波留には理解出来ていない。常々その手のものは彼には良く判らない心理だったし、今回に限って言えば、気を回している心境でもなかった。 「もし機会があったら、久島部長の事心配してた一般島民はここにも居たって、お伝えして下さい」 「ええ…本当にお気遣い頂き、ありがとうございます。彼に代わって、感謝します」 女性客達に波留はそう告げ、胸に右手を当て、深々と頭を下げた。その態度に、女性客達も挨拶を残して店の前から立ち去ってゆく。 彼女らのその足取りは軽い。好みの店員とレジャーダイビングに勤しみ、休日に良いリフレッシュが出来たのだろう。更には、その店員と「喜び」を共有出来たのだ。とても嬉しい話だった――少なくとも、彼女らは今の状況から、そう判断していた。 波留の側からは、彼女らの背中が徐々に小さくなってゆく。彼は顔を上げ、その3者の背中を見送っていた。 ショップの前には舗装された2車線の道路が走っている。車両も通れるだけの幅は確保されているが、人工島における交通手段は水路を用いたものが主である。そのため、現時点では付近を行く車両は見当たらない。徒歩で移動する人影もやがては波留の視界から消えていった。 客を見送る波留はずっと微笑んでいた。その彼の顔を、柔らかな海風がそっとなぶってゆく。その風に煽られた生乾きの後ろ髪がさわりと浮き上がり、潮の香りを撒き散らしていった。 不意に水音が聞こえた気がした。 いくら海岸通りとは言え、海岸線がすぐそこにある訳ではない。微かな潮騒は響いてくるが、ぱしゃんとか言う水際の音は普通ならば聞こえてくる訳がない。 しかし、波留の聴覚は実際にそれを捉えた。そして彼は頭で考える以前、反射的にその音がした方を見た。 遠目で確認出来る沖合に、彼は流線型の影を見出した。 波留は目を見開く。それは一瞬の出来事だったが、確かにイルカらしき姿だった。同時に甲高く短い鳴き声が届く。明らかにあり得ない現象だが、まるで至近距離にイルカが出現したかのように鮮明に波留には聞こえていた。 しかし、その印象も、穏やかな海風と濃い潮の香りに徐々に紛れてゆく。空に掲げる太陽は徐々に地平線へと迫りつつあり、海の輝きはオレンジ色へと変化していった。 |