蒼井ミナモと言う名の少女が退出して行ってすぐ、殆ど間を置く事なく、部屋付きのタイプ・ホロンが久島の元を訪れていた。
 トレイを携えて現れたアンドロイドは、未だ応接スペースのソファーの前に立っていた部屋の主に対して恭しく一礼する。そしてテーブルの上に存在する2セットのティーカップに視線を落とした。一方は全て飲み干されていたが、もう一方はカップの半ばの水位まで残っている。それらを一瞥した後、下げても良いかと主にお伺いを立ててきた。
 訊かれた方は、無言で黙礼を寄越す。その仕草にも、対人プログラムがインストールされている女性型アンドロイドは微笑んで会釈した。そして黙々と作業に移る。
 久島の義体は、テーブルの上を片付けてゆく彼女の脇を擦り抜けた。客が去った今、応接テーブルに拘る意味はないからである。
 彼はそのままいつもの定位置たる黒いデスクへと戻ってゆく。その手には、中身がきっちりと詰まっている無色透明の袋があった。
 部屋には不釣り合いなクッキー入りの袋を携え、彼は重厚な革張りのソファーに腰掛ける。そして、これを持ってきたのはいいが、果たしてどうすべきかと彼ははたと気付いた。
 何気なく、縛った一端を彼は摘み、持ち上げる。中に詰まっているクッキーは特に色づくような材料を混ぜてはいないらしく、プレーンの焼き色がついているのみだった。
 彼はその袋を左手の上に乗せる。すると、掌にはごつごつとした感触が伝わってきた。
 不意に、彼が見ている風景に、蒼が垣間見える。
 その現象に彼は瞠目した。しかし、すぐに目を細める。眩しいものを目の当たりにしたかのような素振りだった。
 彼の視界に入っているその左手の掌には、蒼のリボンが巻き付いていた。視覚で認識した途端、その布の感触が掌に伝わってくる。きつく締め付けてくる訳ではないのだが、確実に自らを拘束してくる心地がした。
 更に、その掌が粉っぽいような気がする。蒼いリボンを注視すると、その蒼には微かに白っぽい粉が吹いていた。その上にはクッキーの袋が位置している。その状況から、おそらくはこれはクッキーの微細な欠片なのではないかと、彼は推測した。
 きちんと口を閉めているはずだが、一旦開けたりしたせいか、僅かな粉が外部に漏れている。袋の口元にまとわりついた砕けたクッキーの破片が彼の右手に微量ながら付着しているのだろう。
 ――ジンジャーブレッドクッキーを焼いてきたのだと、訊いた。ならば、やはり生姜の香りが漂っているのだろうか。義体はそんな事を思うが、彼の乏しい感覚機能では嗅覚を維持出来てはいなかった。
 その瞬間、彼の耳元に声が響いた。
 ――あらあら…年頃の女の子からお菓子を貰えるなんて、いい御身分じゃなくて?
 次いで、彼の視界にぬっと腕が伸びてくる。黒い布で覆われた腕の先に、綺麗に切り揃えられた爪を持つ左手があった。その手が彼の左手に被さり、触れてくる。指先が袋に触れて音を立てたような気がした。
 一方では、肩や首筋には何かが押しつけられてきた感触がする。柔らかな髪の毛が耳元に被さり、くすぐってきた。
 久島の義体は、後ろから何者かに抱き竦められているような状態に陥っていた。しかし彼はソファーに腰掛けた状態のため、背もたれが彼らの距離を遮っている。それでも肩口に当たる感触はとても柔らかかった。
 義体は顔を顰めた。戯れに重なり触れてくる左手を一瞥した後、視線を前方へと向ける。その先には応接スペースが存在し、部屋付きのホロンがテーブルを片付け終わろうとしていた。
 そのタイプ・ホロンは室内に新たな闖入者が現れても一切の反応を見せていない。むしろ、全く気付いていなかった。彼女にとって、部屋の主に後ろから絡んできている金髪女性の存在は全く認識出来なかった。
 不意に久島の左手が動いた。若干の物音を立ち、それにホロンは顔を上げた。ちらりとその方を見やると、義体が手にしていた袋が黒いモノリス状のデスクの上に置かれていた。
 どうやら手から、クッキー入りの袋を下ろしたらしい。
 それにしては、何だか振り払うような仕草を見せたような気がしたのだが、おそらくは取り落としそうになって反射的に動いただけなのだろう――特殊な状況を理解し得ないホロンは、自身のAI内にてそう解釈して終わっていた。
 ホロンはティーセットを納めたトレイを掲げ、部屋の主へと一礼する。何か用向きがないか尋ねてみたが、彼は無言で首を横に振っていた。
 その表情からは右手を鬱陶しげに横に振りそうな印象も湛えていたが、実行には移されない。ともかくアンドロイドは入室時と同様に恭しい一礼を残して退出して行った。
 自動ドアが閉まると、自然に天井の照明が弱まってゆく。「人間」が居なくなり主のみが滞在するに至った部屋は、最低限の灯りのみを点灯させていた。
 ぼんやりとした灯りは黒の盤面に淡く反射する。無造作に置かれたクッキーを包む無色透明の袋がその光を浴び、微細な色合いを醸し出していた。
 ――私は、薄情者か。
 真正面の扉を見据えたまま、彼はそんな事を電脳内にて呟く。電通ダイアログを開いた訳でもない。本当に彼自身の心中で独白しただけだった。
 電通形式ではないのだから、誰にも聴かれる訳はない。原理ではそのはずだった。しかし、実状は違う。彼の聴覚には、短い笑いが響き渡った。
 それは失笑とも嘲笑とも取れる笑い声である。その声を聞きつけた彼は眉を寄せた。そんな彼の耳に、語り掛ける声がある。
 ――あら、まるで人間みたいな事を言い出すのね。人格プログラムもインストールされていない、只のAIのくせに。
 その女性の声はとても楽しげだったが、陽性の声色とは言い難い代物である。そして彼女の左手が持ち上がる。彼の前を横切り、黒のモノリスの上に掌を広げた。
 その手は先程までは彼の左手に重ねていたが、不意に振り払われていて今に至っている。解放された彼の左手の傍らにはクッキーの袋が無造作に転がっていた。そしてその左手には蒼いリボンが絡みついている。
 女性の手が触れた黒いモノリス上には光の筋が走り、六角形に切り取られる。新たに生まれた光源が、久島の顔を照らし出した。
 彼は光の筋に視線を落とす。モノリスに何らかのアクセスを成したから、こうやって発光しているはずだった。しかしこの部屋は久島永一朗のプライベートルームであり、現在は彼自身が管理している。アクセス権限は彼が有するのみであり、他の誰もモノリスを好きに出来ないはずだった。
 しかし、この女性にはどんな措置を講じても無駄だと、彼は知っていた。むしろ、彼と言う存在があるからこそ、この部屋のセキュリティを突破してしまえるのではないかと、諦めの境地に陥っていた。
 彼は黙り込んでいる。彼女がモノリスにアクセスして何をしているのか、興味はなかった。彼女自身にその気があるなら、面白おかしく語り掛けてくるのだろう――そう思っていた。
 不意に右頬に何かが触れてきている。彼はそれを感じ取った。金髪女性の右手が彼の右頬に触れ、やんわりと撫でている。
 彼はその手の動きに眼球のみを動かして視線をやったが、それだけである。特に振り解こうともせず、彼女の好きにさせていた。それでも表情は堅いままである。
 ――まあ…――臆病者にはなって欲しくはないかしらね?
 頬をくすぐるような感触の中、彼の電脳にそんな声が届いた。その声に、彼は僅かに身じろぎした。口の中で奥歯を噛んだ。そして頬を撫でられている以上、口の動きにも勘付かれたのだろうと気付く。彼はそれを、何処かで失策のように思った。
 ――…臆病者。
 その単語を、彼は心中で繰り返した。自然に顔は俯き、モノリスの光の筋が義眼に写り込む。
 ――ええ…臆病者。
 笑みを含んだ女性の声が、彼の言葉を追随した。その態度に、彼の眉間には深い皺が刻まれた。そしてその言葉が有する響きを、彼はしばし噛み締めていた。
 
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