水深としてはかなりの深海に位置するこの一室には、表層から光は届かない。周辺にも常時利用されているフロアは存在せず、灯りを発する存在はなかった。
 室内には応接間として通常の明るさが保たれている。豪奢ではないが重厚な印象を与える調度類が並ぶこの部屋には生活臭が感じられない。
 そこに独り、人間の少女がソファーに腰掛けて黙り込んでいる。向かい合う壮年の男も沈黙していた。彼は膝の前で両手を組み、若干前屈みの姿勢でじっと少女を見据えている。そのふたりの間を僅かな紅茶の香りが揺らいで行った。
「――…AIさん」
 沈黙を破り、小さな声がその名を呼んだ。か細い少女の声が冷たさすら感じさせた静謐な部屋の空気を穿つ。
 対面する義体は、それに僅かに首を傾けた。僅かに口を開き、息を吸う。微かに眉を動かして顔をしかめた。無表情の中に、ほんの少しの不平めいた感情が表れた。
「…だから、もう私の事をそう呼ばないで欲しいのだ」
 彼はそんな事を言う。そこには咎めるような響きがあった。――この期に及んで、この少女は私を尚そう呼ぶのならば、私の判断は誤ってはいなかったのだろうか。彼は内心そう思っていた。
 これは自らの推測が間違っていなかった事になるのだが、その事実に彼は若干の失望を覚えている。確かにこの展開を危惧していたとは言え、ここまで言葉を費やしたのに未だに認識を変化出来ないのだろうかと、対面の少女に僅かな苛立ちを感じてさえいた。
 彼の前では相変わらず少女は顔を上げようとしない。その視界にいつもと違ってリボンが存在しない現実を、彼はやけに奇妙だと思った。
「――…あの時点で、決めてたんですか?」
 少女の褐色の頭が上がらないまま、彼女はそんな事を言い出した。
 その言葉に、彼は首を傾げた。色々と言葉が足りていないため、相手が言わんとしている内容を推測するには至らない。
「私、この前AIさんに電通したじゃないですか。何になりたいんですかって」
「…ああ」
 顔を上げないままミナモが続けたその台詞に、彼はようやく頷いた。その声は肯定の意を示しているが、先の台詞に対してのものなのか、それとも今の台詞に対してのものなのか。或いは両者を示しているのか、それとも意思表示ではなく単なる相槌に過ぎないのか――あまりに不明瞭なままだった。
 少なくとも彼はそれ以上の明示を行っていない。そして少女もそれ以上を求めなかった。ふたりはそのまま会話を流してゆく。
「この前会いに来た時に私、偉い人達と入れ違いになりましたよね」
「ああ」
 ミナモからの言葉は続き、彼もそれに相槌めいた声を上げていた。事実確認と言う意味においては、ふたりの間には共通の風景が認識されているはずだった。
「今回の話って、あの偉い人達に頼まれたんですか?」
「…ああ」
 次の相槌には、義体は若干の間を要した。それでも彼は、無表情ながらも素直に受け答えていた。
 そして今回に限って言えば、明らかに相槌ではなく肯定の意と捉える事が出来る。彼はある秘密を一介の少女に明かした格好になるのかもしれないが、それはAIであろうと久島当人であろうとどちらとも解釈は可能だろう――仮に「久島当人」であっても、電理研幹部からの要請は無視出来ないはずであろうから。
 ミナモは不意に肩を揺らした。大きく頷いてみせた後、すっと顔を上げた。大きな瞳がじっと対面する久島を見据える。
 そして、ふっと笑った。柔らかな笑みを15歳らしい少女の顔に湛えた。
「――判りました。私、あなたに迷惑はかけたくないです」
 口元に微笑みを浮かべたまま、ミナモはそう告げる。その言葉に、久島の義体はゆっくりと瞼を伏せた。僅かに俯き、言う。
「…ありがとう」
 若干長い前髪が彼の目元にかかる。それが陰になり、ミナモからは彼の表情を窺い知る事は出来なかった。
 不意に彼は身体を起こす。滑らかな動きですっと立ち上がった。纏っている衣服が衣擦れの音を立て、接地する靴底も僅かに堅い音を発した。
 唐突な彼の動きに、ミナモは反応出来ない。きょとんとして、立ち上がった彼をそのまま見上げていた。
 久島の義体は姿勢を正している。そのままの姿勢で、両手を身体の脇に添えて腰を折った。顔を傾け瞼を伏せ、礼儀正しく一礼を行っていた。
「蒼井ミナモ。君からの献身には、いつもながら深く感謝する」
 深く頭を下げる久島を、ミナモはぽかんとして見上げていた。話の展開についていけない。これは所謂最大限の敬意を払うと言う奴ではないだろうか――社会経験に乏しい15歳の少女であっても、それ位の儀礼には推測がついた。特に、望んだ訳ではないが社会的地位の上層部の人間と関わる機会が増えてしまったこの4月以降の経験が彼女の中に積み重なっている。
「――そんな、大袈裟です」
 何故だか知らないが、自分はこんなにも感謝されている。その事実を認めたミナモは、瞬時に慌てた。ぴょこんとその場に立ち上がる。余裕ない行動に、やけに大きな音が立った。
 急の体勢変化にスーツのジャケットの裾が捲れ上がる。それに気付いた彼女は慌ててそれを下ろし、整えた。ぱんぱんと取り繕うようにその辺を叩き、両脇に両手を揃えた。
 対面する壮年の男は、その間も一礼を解いていない。少女に対して敬意と感謝の念を表し続けている。その事実を目の当たりにすると、ミナモは困惑してくる。眉を下げ、言い募った。
「いつもいつも、私の考えが足りないのは事実ですもん。そんな私に辛抱強く付き合ってくれてるのは、ほんと凄いですし、感謝するのは私の方です」
 困ったようにもじもじと身体を動かした挙句、少女は自らの両手を見た。そして、意を決したように右手を伸ばす。立ち上がった下にテーブルを挟みつつ、対面する彼に向けて手を差し伸べた。
 何かに気付いたのか、一礼していた義体は薄く瞼を開いた。すると、俯いた視界に差し出されている少女の手を見出す。
 それを認めた彼は、ゆっくりと顔を上げる。テーブルを挟んだ向こう側に、少女のはにかんだ笑顔があった。
「会えないにしても、いつでもメールして下さいね。私、待ってます」
 ミナモはそんな事を告げ、にこりと微笑む。顔を傾けて、改めて右手を差し出した。その彼女の顔と右手とに、義体は交互に視線を送る。一礼こそ解いたものの、中途半端な風に自らの右手を持ち上げた後に、行動が続かない。
 そんな中、ふとミナモは気付いたように顔を上げる。義体を窺うように見た。そして笑みを絶やさないまま、訊く。
「――…メールは、いいですよね?」
 ミナモから投げ掛けられたその言葉に、久島の義体は意表を突かれていた。僅かに顔を上げ、反応する。
 しかしそれがきっかけとして、彼の行動を呼び起こす格好となった。彼は軽く頷いた後、答えを寄越す。
「…そうだな」
 短い言葉だった。頷いた拍子に前髪が目元に掛かる。そして彼は右手を伸ばす。そこにあったミナモの手を取り、軽く握手を交わした。
 少女の体温は彼の人工皮膚に確保されている35度の平熱よりも若干高い。しかし彼に実装された乏しい感覚点では、それを明確に感じ取る事は不可能だった。
 それでも彼には、この眼前の少女の手がとても暖かい気がした。
 おそらくは自らに制動系ソフトウェアがインストールされた際に、感覚点からの伝達機能もグレードアップしているのだろう。以前の自分には、それらからの入力を扱うためのソフトウェアすら存在していなかったのだから――彼はそう判断していた。少なくとも、論理的思考を成すならば、そう結論付けるのが妥当であるはずだった。
 
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