|
彼は義眼の瞼を開いてゆく。 視界に捉えられた風景は、暗がりの室内だった。この部屋には現在「人間」が居ない以上、照明は絞られている。彼はそれを受け容れていた。特に不自由を感じていない。彼はこの室内ではデスクに着いたまま離れないのだから。 不意に、聴覚に電子音が響く。電通ダイアログが現れると、そこには公的アンドロイドの画像が表示された。彼女は、この部屋を担当している秘書型アンドロイドである。 その彼女が部屋の主に来客の旨を告げてきた。それに彼は無言で頷く。予定された時間通りだとスケジュールを確認し、来客をこの部屋へと通すように秘書へ申し渡した。 かくして久島のプライベートルームに蒼井ミナモは現れた。 人間が通された室内は通常の照明に戻され、天井から柔らかな光が降り注いでくる。それを頭上に受け止める少女の髪にはリボンはなかった。 ミナモはトレードマークであるはずのリボンをつけず、褐色の髪を解いている。その服装も制服やその他のいつもながらの私服ではなく、パンツスーツだった。普段醸し出す幼い印象から、一足飛びに大人びていた。 部屋付ホロンはミナモを応接スペースに案内し、ミナモは彼女や迎えた部屋の主にぺこりと頭を下げた。そして通された席に着いていた。 「――ほんと、急ですいません…」 恐縮し切っているミナモの対面に、部屋の主は悠然とソファーに腰掛けている。プライベートルームに戻っている彼は白衣と制服姿ではなく、通常のスーツに容貌を戻していた。 「昨日君からメールを貰った時点でこの予定は確保された。私はアポイントに貴賤をつけるつもりはない。君が気に病む必要は全くない」 会話を交わし始めたふたりの傍らにタイプ・ホロンが戻ってくる。彼女はトレイを掲げ、その上にあったティーカップ一式をテーブルへと下ろしてゆく。まずは客人たる少女へと出し、次いで部屋の主の前へと置く。カップになみなみと注がれた紅い液体からは芳醇な香りが漂ってきていた。 ミナモは香りに釣られるように、その水面へと視線を落とした。右手を伸ばして蔓に指を絡ませてみるが、カップから伝わる暖かさを感じただけで持ち上げるには至らなかった。 ちらりと見上げると、向かいに腰掛ける壮年の男性は静かにカップを持ち上げて液体を啜っている。ソーサーを添え持ち上げている姿は、作法に則っていて絵になる代物だった。 「――あの」 ミナモは何かを言いかけつつ、呼びかけていた。手を蔓から離す。 「…何だね」 怪訝そうな声が少女の耳に届く。彼はカップから口を離し、それをソーサーの上に下ろしていた。漂う湯気を顎に当てつつ、彼女を促す。 ミナモは腰掛けるソファーの傍らに置いた鞄を漁っている。パンツスーツ姿には若干不釣り合いなデザインのベージュの肩提げ鞄の口を開き、その奥から何かを探り当てていた。 そうは時間を費やさず、ミナモは手を鞄から引き抜く。何かを手にし、テーブルの上に示した。 「これ…――差し入れです」 テーブルの上に差し出されたものを、久島は一瞥した。そこには両手に収まる程度の大きさの無地透明のラッピング袋が膨らんでいる。その口は金属製の留め金で無造作に結われていた。 無地透明の袋のため、外見からもその中身を伺い知る事は容易だった。それなりの厚さを持つブラウンの円形の物体がいくつも収まっている。その縁やあちこちの色が濃くなっていて、焼き目が付いている状態だった。 「――これは、クッキーか?」 「はい」 そう久島が問えば、ミナモは大きく頷いていた。その反応に、久島は思わず瞬く。一体何故そんなものを――反射的にそう問いかけそうになったが、その刹那には彼のAIから該当する記憶が呼び起こされていた。 「お茶請け――だったか?」 「――はい!」 彼がその単語を口にした途端、ミナモの表情が明るくなる。大きく頷き応えていた。 「覚えておいてくれてたんですね!流石AIさんです」 続く少女の声は弾み、態度も飛び上がらんばかりのものへと変化してゆく。その勢いに、対面する義体は口を噤んだ。 ――確か以前、次にはそんなものを持ってくるとか言われた覚えが、彼にはあっただけだった。そして本当に律儀にそれを実行して来たのかと思っただけだった。彼としてはその事実を指摘しただけのつもりなのに、まさかここまで喜ばれるとは思ってもみなかった。 彼の心中をミナモは気に留めない。嬉しさに浸りつつ、袋の口を留めている金属製の紐を解きに掛かっていた。同時に説明を加えてゆく。 「ジンジャーブレッドクッキーって言って…今日焼いてきました。出来立てほやほやです」 「…市販のものではなくて、君がこれを作ってきたのか?」 「そうですよー」 頭上から降ってくる怪訝そうな声に、ミナモは顔を上げた。どうやら料理する自分を意外に思われたらしい。彼女はそう考えた。それもまた彼女を楽しい気分にさせ、表情にそのまま出してゆく。 「おばあちゃんから教えて貰ったレシピなんです。作るの初めてじゃないし、今回もちゃんと出来てると思います。ちゃんと味見もしました」 言いながら、ミナモは口の開いた袋を持ち上げた。両手で支えるように持ち、口の方を久島へと差し出した。中に詰まったクッキーが覗いている。指で摘み上げる事は容易いはずだった。 久島はその口を見据えている。手を差し伸べるでもなく、沈黙していた。紅茶の湯気に紛れて、僅かな甘い香りと生姜の風味が大気中に浮かんでくる。ミナモの鼻腔がそれらの香りを捉えた頃、向かい合う男が口を開いた。 「――蒼井ミナモ」 しかし彼はその名を呼んだだけだった。表情を浮かべない顔で静かにミナモを見ている。 彼のその様子に、ミナモはきょとんとする。次いで、取り繕うような笑みを浮かべた。また空回りしてしまったのかなあ――そんな想いが脳裏をよぎる。 「…えっと…お口に合うかはわかんないですけど、良かったら、試しに――」 瞬間、久島の義体は溜息をついた。瞼を伏せて軽く顔を揺らす姿に、ミナモの台詞が途切れる。覆い被さる前髪に紛れてはいるが、僅かに寄った眉間の皺に彼女は気付いた。 その印象を湛えたまま、久島の義体は口を開いた。 「蒼井ミナモ。大変申し訳ないが…君はもう、ここには来ないでくれ」 |