|
電理研統括部長の職にある久島永一朗の容貌を踏襲した義体は、部長オフィスを去っていった。 久島が統括部長である以上、部長オフィスが彼の居場所のはずである。しかし今の彼は、その部屋を代理職に就いている青年に明け渡していた。意識消失から回復はしたものの、統括部長職への完全復帰に至るつもりはないからだ。 彼は先の会見で統括部長職からの退任の意思表明をした。ひいては、電理研からも身を引くかもしれない。ならば、今は退任の準備が整っていない故の宙ぶらりんな身の上となる。余計な事はせず、プライベートルームに引き篭もっておくに限る――。 ――彼の現状をそう解釈出来るだけの材料は、彼自身が先の会見で明確あるいは断片的に提示している。そしてそれを読み取れない愚かで洞察力のない人間など、電理研には存在しない。 彼は統括部長オフィスから、自らのプライベートルームへと足を進める。その道程は複雑に入り組んではいるが、一本道である。彼自身はこの順路を歩くのは初めてなのだが、電脳内に表示させた順路を参考に、リアルの身体では全く躊躇を見せる事なく歩いていった。 久島永一朗のプライベートルームは、海底に拡充された電理研においても、かなりの深度に位置する。減圧装置を用いなければならない大深度区画との境目ぎりぎりに存在するような深層だった。 その順路は別に専用通路と言う訳ではない。研究職が勤務するフロアをごく普通に通り過ぎ、エレベーターを使用する。フロアの深度とそこで研究開発されている機密が比例するのが電理研の構造なのだが、そんなフロアに所属する人間の職員ともたまにすれ違うものだった。 職員サイドにとって、その日常は最早再来しないはずだった。しかし今日、それが再来したのである。仕事のやり取りのためにオフィスから通路に出た彼らの脇を、久島部長が歩いてゆく。何の感慨も漂わせていない、いつもながらの平然とした足取りだった。 電理研職員の中には、久島部長に様々な憧れを抱き、それが所属動機になっている人間も少なくない。電理研は必ずしも久島のワンマン企業ではなかったのだが、重鎮達のイメージは久島が独り突出していた。企業体としての電理研も、久島を広告塔として全面的に押し出してきた面は否めない。 島の内外の一般民衆同様に久島を神格化する者は、電理研内にも充分な比率で存在する。だからと言って自重を働かせる事が出来ない愚かな人間もまた、この電理研には居なかった。つまり、眼前を歩かれようが、せいぜい足を止めて注視し、視線が合ったら会釈する程度に留めるだけの理性は持ち合わせていた。 それでも頬に赤みが射し顔が綻ぶような反射作用を留め得る人間は、そうは居ない。そんな人間の顔に、何気なく久島が目を留めていた。彼自身は特に視線を注ごうとしていた訳ではないのだが、結果的に視線がかち合う。 久島は足を止めるまでもなく、軽く手を挙げた。 彼自身は特に表情を変える事もない。何気ない仕草だった。しかし、それは普段通りの彼そのものだった。 挨拶めいた仕草を見せられた当の職員は、顔の赤みが一気に増す。身体を強ばらせた後、大きな仕草で何度も礼を続けていた。 周辺を歩いていた数人の職員も、その変化に足を止める。久島に対し、各々会釈したりと様々な反応を見せていた。それは一律として喜びを表す反応と言えた。 そんな、自らの部下達の中を久島は歩いてゆく。手を挙げたものの、それ以上の反応は見せない。声を掛けられるまでには至っていないからか、足を止める様子もなかった。 彼の視界には、電脳内に広げた順路マップが存在している。そのルートラインをリアルの足で辿り、各所のコンソールに手をかざして通行して行った。 その電脳経由の視界にアラートが明滅する。単純な電子音が彼の聴覚に響き渡った。メール着信を示すメッセージが最前面にポップアップしてくる。 合わせて表示された送信者名は「蒼井ミナモ」となっていた。 彼はその名を一瞥する。しかし、それだけだった。メール本文を開こうとはしない。とりあえず受信アラートを消すに留まった。 職員達の姿が遠ざかってゆく。彼は別の階層へ向かうためのエレベーターの前へと至っていた。その前に足を止め、コンソールに手をかざす。更に下層へと向かうべく、エレベーターを呼び出していた。 ここはリアルである以上、エレベーターも物理的概念である。内部の個室が遠くの階層に留め置かれていた場合、呼び出しても到着までには一定の時間を待たなければならない。 彼は沈黙し、扉の前で立っていた。扉を正面から見据えると、彼の姿が鈍く映し出される。姿見のように鮮明に映し出される訳ではないが、彼は纏った白衣と詰め襟状の制服に視線を注ぐ。その上に鎮座すべき自らの顔は、照明の当たり具合のせいか酷く不鮮明だった。 彼は瞼を伏せた。しかしそれはリアルでの話である。リアルの視界を遮断した事で、電脳を介する視界が浮き上がって来た。 常時展開されている順路マップのウィンドウに重ね、彼は自らの電脳内のフォルダ階層を辿って行った。 やがて、あるファイルの表題へとフォーカスを移す。それは先程あのホロンと呼称される秘書用アンドロイドが通信してきた報告書だった。 ――…あら、面白い玩具を貰ったのね。 彼の耳元に女性の声が響いてくる。電通ダイアログが開いた訳でもない。まるでリアルの傍らに立ち、囁いてきたかのように鮮明に聞こえてきた。 その現象に、彼は眉を寄せた。僅かに瞼を上げると、不鮮明な姿見めいたエレベーターの扉を目の当たりにした。 彼自身は何も答えず、口を噤む。――どうせ、彼女はこのファイルを閲覧してるのだろう。彼はそう思っていた。 接触した相手の電脳からデータを抜き取る能力を持つ彼女は、この彼が得たデータファイルも好きにする事が出来るはずだった。 しかし、自らの内部に勝手にアクセスされる感触すら、伝わってこない。彼女――エライザ・ワイゼンバウムはチャットプログラムを原型としたAIである。そして彼は、チャットプログラムとしてのエライザを元に作成されたAIだった。 彼女が言い張るには、自分は原型としたプログラムなのだから繋がり合ってもおかしくないらしい。そのくせ、逆方向のアクセスは不可能なのだから、彼にとっては理不尽極まりない話だった。 ともかく、どうしようもない話である。閲覧中だからか、彼女が黙り込んでくれているのは嬉しい限りだった。そんな彼の聴覚に、単音の電子音が鳴り響く。次いで、眼前の扉が開いた。エレベーターが到達する。 彼は無言でそれに乗り込み、この階層から姿を消していった。 |