部長オフィス内には、応接スペースが存在している。統括部長や現在の部長代理が迎える来客は他言無用な秘密を抱えている事が多く、電理研内に用意された一般来客スペースや個室にて出迎えるのは得策ではないためである。
 主のデスクから通路めいた空間を挟んだ向こうにて、広いソファーが向かい合わせに置かれてテーブルを挟んでいる。そこには現在、独りの男が腰掛けていた。ソウタ同様に電理研の制服の上に白衣を纏ったまま、出された紅茶に口を付けている。白磁のティーカップを持ち上げて傾け、湯気を上げる紅い液体を口に含んでいた。
 その傍らにホロンがやってくる。彼女は一礼した後に、ソウタ相手と同様に右手を差し伸べた。
 来客スペースに着いていた壮年の容貌の電理研職員は、傍らに現れた秘書用アンドロイドを横目で一瞥した。彼は無言のまま、しばし視線を送る。口からカップは離れていたものの、紅色の液体を含んだままだったらしい。
 彼はそれをすぐに飲み込まず、口の中で転がしている。液体が紅茶と言う事もあり、さながらテイスティングのようだった。
 が、それも10秒も経過しないうちに終わる。彼の喉が動き、元々少量だった液体を飲み込んだ。そして手にしていたカップとソーサーをテーブルの上に戻す。微かな音を立て、彼の前に収まった。
 言葉を発しないまま、彼は右手を上げた。ソファーに腰掛けたまま、身体を若干横に向けてホロンへと向き直った。丁度眼前に突きつけられた格好の掌に視線を落とし、そこに自らのそれを重ねる。
 通信開始を示す微かな電子音が、重なる掌の間から一瞬響く。互いに義体を用いていても、生身と何ら変わらない通信状態を維持していた。
 その義体は、傍らに立つアンドロイドの顔を見た。秘書としての役割と果たすべくインストールされている対人プログラムの賜物か、対話相手の精神を和らげるような笑みを彼女は浮かべていた。掛けた眼鏡のレンズに透過された瞳にも笑みが零れている。
 そんな彼女の表情を、義体は無感動な瞳で見ている。その彼の視界の隅に動きがあった。人影がゆっくりと近付いてきており、それに伴いかつかつと床を棒で突く音が徐々に大きく彼の耳に届き始めていた。
 やがて、電脳としての視界ではプログレスバーが100%を示し、通信終了のダイアログが被さってきている。受け渡されたデータは、先程ソウタと通信したものと同一である。通信環境も同一である以上、通信時間も同一レベルに落ち着いていた。然程時間を要していない。
 ホロンはすぐに掌を剥がす。一歩後ろへ引き、来客に対して深く頭を下げた。膝の前に両手を揃え、見事な角度で一礼をしてみせる。礼儀に則った完璧なお辞儀だった。
「――先生」
 そんな秘書用アンドロイドの隣に、白衣の青年が立つ。彼は右腕に松葉杖を装着し、それを突いてここまで歩いてきていた。支えられた右足には力が篭もっていない。彼は杖と左足でバランスを取り、客人の方を向いた。
「ここはそもそも先生のオフィスだと言うのに、このような扱いになってしまって申し訳ありません…」
 恐縮しきった声を出し、統括部長代理は黒髪の頭を下げていた。そんな彼に、客人はちらりと視線を向ける。無遠慮とも表現出来る視線を送り、淡々とした声色で言った。
「――別に構わない、部長代理」
 義体特有の藍色の瞳がソウタの方を向いている。褐色の前髪がその目元に掛かるが、それには全く反応しない。彼は瞬きもせず、人間を見据えていた。
「私はどうせ辞める身だ。実権は既に部長代理である君に移り定着している。戻ってきたからと言って今更私にそれを戻す必要もない。私は今まで通りに過ごして、評議会の決議を待つつもりだ」
 一貫して彼は平坦な口調を用いている。台詞の内容とは異なり、特にソウタを取りなすでもない。或いは、まるで我が事のように捉えてもいないかのような語り口だった。
 語りながら彼はテーブルに視線を落とす。そこに戻されていた自分に淹れられた紅茶を見やった。
 そして両手を伸ばし、カップとソーサーを持ち上げる。先程から口を付けていて水位は半ば程になっていたが、その紅い液体を口に含んだ。再び味わうように転がしてゆく。
 その間、ソウタは沈黙していた。特に口を挟む事もなく、義体の様子を見守っている。
 やがて、カップを口から離し、下ろした。その中には紅い液体が水滴程度に残っているだけだった。ゆっくりとソーサーと重ね、テーブルへと着地させる。白磁の陶器が軽く澄んだ音を立てた。
 自らが成した事を確認するかのように、その手元を一瞥する。そして彼は手を下ろし、膝の上に置いた。
「――では、私は戻る」
 義体はそう宣誓した。腰掛けていたソファーからすっくと立ち上がる。
 その行動に、傍らに控えていた秘書型アンドロイドは畏まって一歩を引いた。退出を宣言した客人へと進路を譲ろうとする。
 客人と秘書と、彼らの顔を見比べた部長代理は、慌てた風に右腕を動かす。杖を突いて彼も身を引こうとするが、右足が利かない今の彼には突発的な動作は不得手だった。軽くバランスを崩し掛け、とっさに身体を動かしてそれを補う。ソファーに寄りかかるような体勢になってしまった。
 そんなソウタを、立ち上がった義体は一瞥する。特に手助けをするでもなく、見据えていた。
「見送りは必要ない」
 義体はそう告げた。ソファーに手を置いて応接スペースを抜け出す。軽く身体を捻り、傍らのふたりを交わしていた。
「――ああ、そうだ」
 彼は、ふと思いついたような声を発した。続いて、振り返る。
「美味しい紅茶をありがとう」
 その言葉に対し、ホロンが深く頭を下げた。彼女は微笑みつつも礼儀を逸していない表情を浮かべている。対人プログラムに則った行為だった。
 傍らでは、ソウタが戸惑うような顔をしていた。しかしそれも一瞬である。すぐに彼は勢い込めて一礼する。それは、若さが先走ったような会釈だった。
 畏まった室内の人間をよそに、靴音は遠ざかってゆく。そして自動ドアの開閉音の後、音は途切れ静寂のみが残った。
 
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