電理研の海底区画には、部長オフィスが存在する。評議会書記長の執務室と同様、その部屋が電理研統括部長のための部屋だった。 評議会とは異なりボディガードとしてのタイプ・ホロンは配備されていない。しかし、メタル開発のお膝元かつ技術の温床たる電理研は、その存在自体が要塞めいている。ハードウェアとソフトウェアの双方で守られている上、増築に増築を重ねた敷地内の通路は入り組み、順路を知らない人間はなかなか目的地に行き着けないようになっていた。 オフィスの入口付近の壁際には観葉植物が配置され緑の彩りを与えている。室内に入った奥には黒色の盤面を持つデスクが存在しており、部屋の主がそこに付いていた。 その黒のデスクは重厚な印象を与えてくる。加工自体は無造作であり、無機質だった。しかしこのデスクは単なる調度ではない。それ自体が巨大なモノリスであり、メタルへの接続端末なのである。 これ程の巨大な端末を有する人間は、他には居ない。このモノリスとそれがあるこの部屋こそが、メタル開発と管理を一任された電理研の最高指導者の居城に相応しかった。 現時点でそのデスクに収まっているのは、黒髪の青年である。彼は無造作な長さの黒髪に電理研の制服に白衣姿と言ういでたちであり、座るソファーの傍らには白い松葉杖が転がっていた。 電理研統括部長代理たる蒼井ソウタは、モノリスの上で両手を組み沈黙している。接続要求がなされないモノリスは単なる黒い盤面である。天井からの適度な照明を受け、その光を反射していた。 その盤面に、ぼんやりとした人影が射す。沈黙し俯いていたソウタは、それに気付いた。 「――只今戻りました、部長代理」 上から声が降ってくる。ソウタが顔を上げると、デスクを挟んだ彼の前には、眼鏡を掛けたタイプ・ホロンが立っていた。 「ああ…すまない。ホロン」 ソウタは曖昧に頷く。そんな彼の前に、ホロンはすっと右手を上げた。掌を広げ、上司へと示す。 その態度にソウタは軽く首を傾げた。そんな態度自体は「接続要求」を示していると、想像はつく。 メタルを利用する電脳化者は、掌が接続デバイスとなる。無線通信も可能だが、掌同士を重ね合わせれば前時代における有線接続と同様の通信となった。それならば盗聴の危険性もなく、データのやり取りも安定して行える。身体ひとつあればいい手段の利便性も相まって、普通に使われる通信手段だった。 「――どうした?」 それでもソウタはホロンに訊く。右手を上げつつも、相手が何を通信してこようとしているのかを知ろうとした。 接触電通とは、相手の電脳に直に回線を繋ぐ行為である。例えばハッキングの危険性は無線より格段に増すし、妙なデータを送り込まれた場合もその阻止が難しくなる。このホロン相手にそんな可能性はないだろうが、相手はアンドロイドであり気分を害する恐れもない。尋ねてみるに越した事はない――もっとも、それは一般論であり、このソウタと言う青年に当てはまるのかは謎だった。 掌越しにホロンは微笑みを見せている。確かに何の変化も見せず、答えた。 「会見前に、マスターから報告書の提出を受けていましたので、それをお渡しします」 「…報告書?」 ソウタはその単語に一瞬戸惑った。反射的に、ホロンの言葉を繰り返す。しかし、彼とて代理とは言え電理研の役職持ちである。決して愚かではなく、彼自身が寄越しておいたその依頼をすぐに脳裏に浮かび上がらせていた。 「もう解決したのか。流石は波留さんだな、仕事が早い」 青年の口から感慨めいた台詞が漏れる。ホロンのマスターたる波留真理へ委託していた依頼が、彼の心中にあった。 特に急ぎの案件ではないと伝えておいたはずである。正直、雲を掴むような依頼でもあった。なのに波留が費やした日数は然程多くはない。その事実を鑑みると、ソウタとしても尊敬めいた言葉が口を突いて出てきてしまう。 ――依頼をこなして暇になっていたのならば、波留さんはさっきの会見をリアルタイムに見たのだろうか。 ふと、ソウタの脳裏にそんな疑問が沸いてくる。すると、彼は眉を寄せた。瞼を伏せ、何かを振り払うように軽くかぶりを振った。 対面しているホロンは微笑むばかりでソウタに何も言わない。掌をやんわりと突きつけているばかりだった。 ソウタもそれに思い至る。右手を持ち上げ、ホロンの掌へと重ねていた。揺れる視界にホロンの右手を捉えるが、覗く袖口には銀色は垣間見えない。あれは左手の方だったかと思い直したが、次の瞬間にはだからどうしたと自嘲する。 そんな彼の思いをよそに、データの受信は進んでゆく。これは直接通信であり、互いのリソースも充分に存在していた。そのため、ソウタの電脳に投影されるプログレスバーの進みも早い。10数秒のうちに受信完了のメッセージが表示されていた。 その途端、ホロンは自らの掌を引き剥がしてゆく。それに気付き、ソウタは電脳ダイアログからリアルのホロンへと視線を移した。彼女は微笑みを湛えたまま軽く頭を下げている。そのまま自らの仕事へと戻るべく、ソウタの前から退出しようとしていた。 「――ホロン」 ソウタはその秘書の横顔に声を掛けた。それに、アンドロイドは足を止める。振り返り、ソウタへと視線を合わせた。指示を待つ体勢を取る。 ソウタは右手を上げる。軽く振ってみせ、ホロンに告げる。 「その報告書は、先生にもお渡ししてくれ」 彼の電脳内には、ホロンから受け渡されたデータとしての報告書が鎮座している。表題とファイル構成にそれらの容量がダイアログ内に表示されていたが、彼はそれ以降のページを捲ろうとはしなかった。 そんな部長代理をホロンは一瞥する。眼鏡の奥の瞳は微笑んだままだった。 ソウタは彼女の脇に視線をやる。モノリスのデスクの向こう側に垣間見える人影に焦点を合わせた。 「――了解致しました、部長代理」 彼の聴覚にその声が届く。ホロンは彼の前から踵を返していた。 |