「――でも、久島さん、本当に大丈夫なのかなあ?」
 伊東ユキノはそんな事を言った。彼女の口元に存在するオレンジジュースのグラスには、未だに立方体の原型を留めている氷のみが残るばかりだった。彼女が食するペースが早いのは、何も所謂スイーツばかりではないらしい。
 そんな彼女の様子を横目に、サヤカは苦笑いを浮かべる。が、状況はともかくとしてユキノが言った台詞には引っかかりを覚えた。一体どういう理屈だろうと、その続きを待つ。
「何か、喋り方変じゃなかった?ちょっと棒読みっぽい印象」
 ユキノはそんな事を言っていた。それに、サヤカは首を傾げた。
「そうかなあ。元々結構ぶっきらぼうな喋り方する人じゃなかったっけ」
 サヤカはストローを摘み、グラスの中を掻き回す。半ばまでは飲んではいるが水位が充分に保たれているオレンジジュースの内部では、氷がぶつかり合い、弾ける音を立てた。
「ユキノは、久島さんが病み上がりと思って訊いてるから、そんな色眼鏡で見ちゃうんじゃないの?」
「そうかなあ…」
 サヤカはそう指摘し、ユキノはそれに首を傾げる。とは言え、お互い「久島部長」には縁遠い立場には違いない。久島が語る姿はこれまでもたまに会見映像などで垣間見る事は出来たが、その際の印象は殆ど残っていない。「偉い人の話」など、この年代の少女達には関わりようがないからである。
 だから、サヤカとしても断言は出来ない。眉を寄せて首を傾げ、ストローを銜えた状態でもごもごと言う。
「まあ…確かに病み上がりだしねえ。今までとちょっとは違うかもね」
「そうよね。大体、電理研辞めるって言ってるんだもん。そういう不安が本人にもあるんじゃないかな」
「まあ…辞めても他にやる事あるだろうしねえ」
 他に客がいない時間帯で暇なのか、マスターはカウンターからそんな声を掛けてくる。
 彼は彼で電理研を脱サラした頃の自分に当てはめて考えてしまっていた。その地位も資産も文字通り桁違いなのだが、どうにかして共感を抱くに至っている。
 ――自分の場合、電理研の仕事が必ずしも厭になった訳ではない。確かに激務には違いなかったが、嫌いではなかった。辞めた理由は、店を開くだけの資産が確保出来たからだった。そういう意味では、電理研の仕事を第一に置いていなかったのかもしれない。
 久島部長が何を思って電理研を辞めるのかは、当人が語らなければ他者が知る由もない。本当に健康不安を抱え、不本意のうちに辞めるのかもしれない。
 しかし、あの会見を見る限り、何処までも前向きだった。若い後継者に後を託し、自分はその先へと向かおうとしている――そんな印象を受けた。
 あの会見に、勝手に自分は感情移入しているのかもしれない。久島部長はあそこまで地位を極めている人物なのだから、多少の腹芸はお手のものだろう。不平不満は覆い隠して乗り切ったのかもしれない――元電理研らしく本質は聡明であるマスターは、それも理解していた。
「そりゃあねえ…大体、久島さんって80代だっけ?普通、引退するよねそんなお爺さん」
 ユキノはそんな感想を漏らす。15歳の彼女らにとって、80代など遥か彼方の事象である。人生100年も当たり前な世の中ではあるが、普通の人間なら多忙さから逃れて悠々自適な生活を営んでいるのではないだろうかと思う。
 特に、久島部長ともなれば所有資産も莫大なものとなっているだろうから。リタイヤして一線を退いても充分なレベルで生活出来ると考えた。
「いくら全身義体っても、無理は利かないのかもよ。実際、倒れてんだしさ」
 生身であるサヤカには、全身義体の人物に実感は沸かない。しかし全身を義体化して若作りしてしまえば、多少の無理は利くのだろうと理解はしている。しかし、脳は生身のままである。ならば80代の老人なのだから、健康に多少の不安は残しているのかもしれない。
 そもそもあの事件で、彼はブレインダウン症例に陥っている。いくら回復したのだとしても、一時は唯一の生身である脳と意識にダメージを受けたのだ。
 そしてメタル開発には電脳を酷使する。メタルダイバーのように直接メタルに意識をダイブさせる訳ではないにせよ、意識と脳に一定の負担を掛けるのがメタル技術者の常である。脳に不安を抱えたまま、メタル開発を行うべきではないのだろう――。
 そこまで考えを巡らせた時点で、サヤカはふと気付いた。隣を省みる。グラスに刺さるストローを摘み、横目で隣を見て、言った。
「――そういや、波留さんも81歳だっけ?」
 サヤカは、その青年を「波留爺」を呼んでいた過去を思い起こしていた。7月までは実際に白髪の老人だったのだから、仕方のない話である――当人をよそにそんな渾名をつけていた行為が礼儀知らずかどうかは、置いておいて。
 そんな彼も今や黒髪の青年である。どういう事情かは全く判らないのだが、どうやら久島部長とは異なり生身の30代になってしまったらしい。
 ともあれ今回の話題において、今の波留がどういう状態かはサヤカにとって関係はない。ともかく「80代の知り合い」として浮かんだのが、彼の存在だったのだ。
 だから、傍らの少女に気軽に話を振った。そこに居るのは、常日頃波留と懇意にしている少女なのだから――。
「――…え?」
 サヤカとユキノの傍らの席に腰掛けていたその少女は、怪訝そうな声を上げていた。
「ニャモ?」
「ミナモちゃん?」
 友人達は口々にその名を呼んだ。明らかに心あらずと言わんばかりのその態度を訝しく思った。
「…あんた、大丈夫?」
 サヤカはそう訊いた。彼女には、このミナモがやけに動揺しているような感じがしたからだ。
 良く見ると、出されたオレンジジュースには全く手を着けていない。グラスの表面には水滴がついて垂れ、敷かれたコースターに吸い取られていっていた。
 ――余程、お兄さんに何も訊かされていなかったのがショックだったんだろうか。それとも、波留さんとの関係?確か久島さんと波留さんって友人同士って話だよね?
「…うん…」
 サヤカの心境をよそに、ミナモはゆっくりと頷いた。ゆっくりと右手が持ち上がり、ジュースに刺さるストローの先端に触れる。億劫そうな仕草で、そこを掻き混ぜた。
「…私は、大丈夫だけど…――」
 ミナモは何かを言い掛けたようだったが、それ以上は続いてこない。ストローを回す手の動きも止まってしまった。
 
[next][back]

[RD2ndS top] [RD top] [SITE top]