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以上の通り兄は妹に対して呆れと危惧を抱いているのだが、俎上の当人はその兄の想いなど知る由もない。彼女は中学3年生の女子らしい、マイペースに行動する日々を送っていた。 ある日の夕方の時間帯に、蒼井ミナモは電理研を訪れている。現時点では彼女の知る由ではなかったのだが、この日はソウタが波留の事務所を訪れた翌日に当たった。 そんな中学生の少女が電理研エントランスホールにてアンドロイドに照会を行う姿は、通りすがりの職員達が目撃してもまだ理解出来ない事もない。しかしそのまま制服姿の女子中学生が電理研の奥へと向かっていく様は、社会常識と照らし合わせるとどうしてもアンバランスだった。 何処かの部署が中学生にモニターでも頼んだのだろうかとか、実は天才ハッカーか何かで電理研に協力しているのだろうかとか――彼女を目にした職員の脳裏には様々な憶測がよぎってゆくものである。無論、その少女は何の変哲もない女子中学生以外の何者でもない。 一介の女子中学生であるはずの彼女が電理研を訪れるようになったのは、今年4月からである。7月以降は差し入れを手にしての訪問も多くなり、リラクゼーションルームで家族と待ち合わせている姿も見られるようになってきた。 多数職員に目撃される場所に出現する回数を重ねるに従い、彼女の姿を覚える職員も出てきた。そして彼女と会っている人物の姿から、その訪問事情を把握する。――あの子は、統括部長代理の妹さんだよ。決して部外者じゃない――事情を理解した職員は、そんな風に同僚達に説明してやるものだった。 かと言って、ミナモに挨拶を寄越す職員は居ない。彼ら職員は自らの業務で忙しいため、女子中学生にかまけている暇はなかった。 それに統括部長代理の身内に下手に親しげに声をかけては、周辺の誰かに妙な事を勘繰られる恐れもある。敢えて火中の栗を拾う必要はない。電理研職員とはメタルを中心とした科学技術の最先端を往くエリート集団である。そしてそのメンバーの大半は、処世術にも長けているものだった。 以上のような事情から、蒼井ミナモは電理研内を歩き回っても誰にも咎められはせず、呼び止められる事もない。 そもそもミナモは、自身に発給されたパスで通行可能な通路しか歩かない。電理研とは入植以前の人工島建設時から存在する施設であり、その歴史を重ねてゆくに従って増設を繰り返している。それ故に複雑な構造になっており、下手に案内ルートを外れると道に迷いかねないからである。 それに彼女には、ペーパーインターフェイスに表示された案内通りに順路を行かなければ、兄を始めとした人々に迷惑が掛かるとの考えもあった。自分勝手な行動は慎まなければならない――その原則を、彼女は大きな代償を払って学んでいた。 ミナモが電理研に足繁く通っていた理由とは、そこに勤める兄や父への差し入れのためである。なかなか家に帰れないふたりのために着替えを持っていき洗濯物を持って帰る。そのついでと言っては何だが、軽く摘めるようなものを調理し弁当箱に詰めて差し入れるのが常だった。 彼女も、中学生とは言えれっきとしたフルタイムの学生である。そんなに暇ではない。そのため、電理研訪問は週に1、2回のペースだった。 そして相手も帰宅出来ないだけあって、多忙である。ミナモが訪問したからと言って、その都度必ず家族に会える訳でもない。ソウタに仕える秘書型アンドロイドたるホロンに差し入れを預けて帰る日も度々あった。それが7月から10月に掛けての話である。 そして、現在は12月である。ミナモが電理研を訪れる理由は、更に若干変更しつつあった。 兄や父は相変わらず電理研勤めであり、彼女の差し入れペースも変わっていない。多少料理が上達してきたとか、洗濯物が綺麗に畳まれているようになってきたとか、そんな変化は見られてきていて肉親を内心喜ばせている。 しかし、彼女の来訪理由にはまた別の要素が含まれてきていた。それは、こうして電理研最深部にまで足を運んでいる事からも判る。 現在、ミナモが行くこの順路は、通路とエレベーターを複合的に利用させるような意図的に判り辛い構造になっている。 パスを与えられペーパーインターフェイスに標示される順路でもその状態なのである。何の案内なしにはその「目的地」には辿り着ける可能性は著しく低い。複雑な順路の設定は、最も原始的なセキュリティのひとつと言えた。 更には、ある程度の階層からは、ミナモ以外に通り過ぎる人間は誰ひとりとして存在しない。かろうじて公的アンドロイドの姿が見られる階層もあったが、それすら見かけられなくなってきていた。 人通りが殆どない通路は最小限の照明が保たれるのみである。海底区画に存在する電理研特有のガラス状の壁面によって隔てられた海からも光の要素は全く認められない。海上から降り注いでいるはずの太陽光は最早到達しない水深である。 海底区画のビル群の窓から漏れる灯りも見当たらない。地上区画の利用が制限されているために、人工島住民は海底に活動拠点を見出すものだが、技術の限界まで深海を目指す電理研の域に達したビル群は他には存在しないからである。 それでも今ミナモが歩いている最深部は、所謂減圧装置を必要としない領域だった。特殊素材の壁面が海からの圧力を遮り、内部の人間には一切影響を与えない、ぎりぎりの水域だからである。 ミナモの足取りは軽い。トレードマークのようになっている大きいトートバッグを登下校時同様に肩から提げ、右手にはペーパーインターフェイスを持っている。それをあちこちの端末にかざして認証を受け、通過していっていた。 今歩いている階層が終着点である。この突き当たりが彼女の目的地だった。 ミナモは歩きながら、手にしている携帯端末の画面を眺める。その隅に表示されているデジタル時計の時刻を確認した。 ――待ち合わせの時間から少し遅れちゃってる。急がなきゃ――そう思うと、自然に彼女の歩みが早くなってくる。決して短い道程ではなく、実際にかなり歩かされているのだが、疲れは感じていない。約束を可能な限り守らなくてはならないとの気概は確実に存在するのだが、それ以上に彼女は扉の向こうでの出会いと会話がとても楽しみだった。 ミナモ自身にはおそらく自覚はない。が、その気持ちと足取りは、4月から7月に掛けて、波留の事務所を訪れていた頃のものとほぼ同一だった。 その時だった。 ミナモがどんどん歩み寄ってゆくその扉が、不意にスライドした。滑らかな動作で自動ドアが開いてゆく。 それを目の当たりにしたミナモは、思わず足を止めた。立ち尽くし、開いた扉をじっと見つめる。 この扉が、自分の訪問時以外に開閉した状況を、ミナモは今まで見た事がなかった。だから想定外の状況に、驚いたのである。自分がパスを送信して中から許可を貰い開閉して貰うのが常だった。勝手に開閉する訳がない――そんな風に思ってしまう。 そしてその考えの根底には、この部屋の現在の主の境遇があった。つまり、彼はこの部屋から出て来ないはず――。 ミナモがそのように逡巡していたのは、一瞬である。すぐに扉の向こうから人影が現れた事で、思惟が中断されたからだった。彼女は、室内の暗がりに思わず目を凝らす。 扉から姿を見せたのは、スーツ姿の男だった。しかし部屋の主ではない。もっと加齢している容貌であり、髪にも白いものが混ざっていた。 彼を認めたミナモは、きょとんとする。一体誰だろうと思った。 すると、相手側も眼前の少女に気付いたらしい。視線がかち合うと、彼は彼でまるで胡散臭いものでも見るような目をしていた。しかし無言のままついと視線を逸らし、廊下へと歩み出る。 その彼の後ろから、更に姿を見せる人物が居た。今度は白衣姿の人間であり、その下には青地の衣服が垣間見えた。その詰め襟状の襟元の意匠からして、電理研の制服を纏っているのだろう。顔には皺が目立ち、神経質そうな印象を与える。 その彼も歩み出てきてからミナモの存在に気付くと、あからさまに不審げな表情を見せた。じろじろと女子中学生に視線を注ぐが、その間も足は止めない。 更に後ろからもう一人、男が現れた。白衣に制服姿ではあるが若干ふくよかな人物で、せわしなく額にハンカチを当てている。そんなに暑い訳でもなく、むしろ深海からの冷気のせいで肌寒さすら感じさせる区画なのに、どうして汗を掻くのだろうとミナモは思った。 彼もまたミナモの存在に気付くと、怪訝そうな顔をした。しかし彼は前に進む事が最優先事項らしく、彼女から視線を外して足早に前の男達を追っていた。 そんな3人が部屋から出てきて廊下に至り、歩いてゆく。その前方に立っている事になるミナモは、慌てて廊下の壁際へと寄った。部屋から出てきた男へと道を譲る。肩から提げたトートバッグの紐を所在なげに掴み、身体へと引き寄せた。 程度の差はあれど一律に胡散臭げな視線を次々と浴びせかけられた格好になったミナモである。若干気分を害していた。 何故こんな人達がここにいるんだろう。まさか、あのひとに変な事をさせてなきゃいいんだけど――少女は3名の背中を遠巻きに見送りつつ、そんな危惧を抱いている。 無論、電理研の人間にしてみたら、この組織とは何の関係もなさそうな女子中学生がこんな最深層まで潜り込んでいる姿を目撃したら、このような視線を送っても仕方がない話だろう。通常のミナモならば、それは判っていたはずである。しかし今の彼女は自分を棚に上げ、不快感の方が先に立っていた。 それは、彼らそのものから感じ取った嫌な感じだったのかもしれなかった。やはり彼女には自覚はないが、それは波留が初めて受けた依頼と、その依頼人に感じたものと同一の感情だった。 |