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波留とソウタのふたりは、そこそこに旧交を深めつつ、仕事の話を終了させた。そうなるとソウタがこの事務所に居座る理由はなくなる。 電理研の要職に就いている彼は暇な身分ではない。いくらメタルを介せばほぼ何の制約もなくデスクワークをこなせる人工島社会とは言え、危機管理の観点からリアルの身体を電理研内に置いておくに越した事はなかった。 彼の先代――厳密には未だ退任してはいないのだが――の統括部長は、この波留の事務所を良く訪れたものである。先代は仕事の依頼を持っていっていたのは確かだが、それにしては世間話で居座る事も多かった。しかし最高権力者の茶飲み友達訪問を苦笑いで許していた風土は、彼自身に絡むテロ事件に拠り、電理研並びに人工島から掻き消えてしまっていた。 ソウタは事務所内にて、ガラス状の玄関自動ドアに背中を向けて波留に頭を下げた。本来ならば外に出た時点で挨拶をすべきなのだろうが、この事務所は「CLOSED」の看板が提げられている。その玄関先にて長々と挨拶の儀礼を行うのは、通行人に不審がられる恐れがあった。その配慮である。 下げた頭を上げた後、ソウタは僅かに笑みをこぼす。松葉杖を突く右手はそのままで、左手を胸に当てて持ち掛けた。 「――もし波留さんの御都合が宜しければ、今度うちで食事しませんか?」 その言葉に、波留は目を細めた。にこやかな表情で軽く頷く。 「それは楽しそうですね。僕は何時でも構いませんよ」 現状の波留の身分は、ダイビングショップの非常勤店員に過ぎない。メタルダイブは趣味の一環であり、今回の「依頼」を片付けた時点では少なくとも表向きはかなり暇な状況となる。 むしろ多忙なのはソウタの側である。多忙な職務を果たす中で歳の離れた友人との会食の機会を整えるのは、かなりのスケジュール管理が必要とされるだろう。 しかもソウタの口振りでは、出される料理は出来合いのものではなく、自分で調理してのものらしい。彼は両親の代わりに家事全般をこなしてきた青年であり、料理の技能もその中に含まれる。そして仕事から調理に逃避する人間は少なからず存在する。現在の彼はそれであるようだった。 波留は微笑む。そのまま、付け加えた。 「その時には、ミナモさんも同席出来るといいですね」 瞬間、ソウタの表情が固まった。何故その名が出てくると、彼は内心で突っ込んでいた。 無論、波留の論理は一般論として解釈が可能である。その妹ともメタルダイバーとしてのバディだったり介助担当者だったりと、縁深い相手ではあるのだから。電理研職員かつ兄妹の父たる蒼井衛にも波留は仕事上の付き合いがあったはずだが、それだけだった。だから、今回の会食のメンバーには含めていないのだろう――。 ――波留さんは、ミナモとデートを繰り返しているようだしな。ふとそんな事を思い出してしまうと、ソウタはその論理の終末点に嫌気が差した。 ソウタの眼前の波留は、相変わらず爽やかな表情を浮かべている。それを目の当たりにしていると、裏を勘繰ってしまっている自分が如何に愚かなのかを、ソウタは思い知らされた心地だった。 「――ともかく、今はこの依頼に集中するつもりです。食事を御一緒するにせよ、解決後になりますかね」 波留が漏らしたその言葉に、ソウタは思惟の迷宮から立ち返った。確かにそれが適当だろうと彼も思った。彼自身多忙な身分なのだから、数週間単位で予定は押さえられている。依頼を解決する頃までは予定を確保出来そうにない。 或いは、波留にとってはこの台詞はある種の宣誓だったのかもしれない。電理研にとっては重要人物からの依頼なのだから、早く確実に解決するに越した事はない。彼の弁は、その決意表明とも言えるだろう。 ソウタの脳裏に、妹の顔が思い浮かぶ。彼は妹と顔を合わせる機会もあまり持てていない。だが、彼女は中学卒業を年頭に控え、次の進路を踏まえた多忙な日々を送っているはずである。それとなく波留との会食の件を今のうちに伝えておくべきかと思った。 その一方で、伝えた時点で速攻で予定を確保されて、自分もそれに引きずられてしまうような気がした。それは色々な意味でどうだろうと、ソウタは思う。そのため、現時点でミナモにメールを送ろうとか、そう言う気分では無くなっていた。 「ソウタ君」 不意に名前を呼ばれ、青年は波留を改めて見た。その眼前に、左手が差し伸べられている。 「これからも宜しくお願いします」 波留の声が続く。ソウタはその若干開いた波留の手に視線を落とし、まじまじと見ていた。どうやら握手を求められてるらしいと、数秒後に気付く。通常の右手ではなく左手なのは、松葉杖のために右手が塞がっている自分を気遣っての事なのだろうと推測する。 そしてソウタは左手を胸に当てた。シャツに掌を擦り付ける。汗や汚れを落とし去るような行動に出た。しかしその動きは、止まる。口元を歪め、戸惑いが表情に浮かんだ。 ソウタは左手を胸元から剥がした。しかしその手は波留のそれを重ね合わされる事はない。彼は体側にその手を導き、姿勢を正す。そのまま、深々と頭を下げた。 波留の左手は中空に固定されたまま、彷徨う状態に陥る。そして波留自身、ソウタの後頭部を見下ろす格好になっていた。怪訝そうな表情で、その短い黒髪を眺めやる。 「――波留さん」 顔を上げないまま、ソウタが声を発した。彼は事務所の床を見つめ、声をそこに反射させている。 「俺は未熟な人間です。これまでにも、それを痛感して来ました」 その声の調子は特に荒げている訳でもない。かと言って淡々とも呼べる状態でもなかった。心中を吐露している――そんな表現が最適だろう。しかしそれは波留に対してなのか、それとも床に向かって吐き出しているのか。少なくとも傍らの波留には判断がつかない。 「しかし…俺はそれを言い訳にしていたのだと、最近気付かされました」 ソウタからの独白は続いている。蚊帳の外に置かれた格好の波留は黙って耳を傾けていた。口を挟むべきではないと思った。 「これからはこの立場に恥じないよう、行動していきたいと思っています」 ソウタの語気は激しい訳ではない。強い言葉も用いてはいない。しかしそれは紛れもなく何らかの宣誓だった。 だが、何処か曖昧なままであり、波留には意図が掴み切れない。それもソウタが誰かに聞かせるつもりはないと解釈すれば、納得は行く。 波留の眼前で、ソウタの頭が上がる。独白は終わりを迎えたらしい。深々としたお辞儀も解除されようとしていた。 頭が軽く下がった状態にて、ソウタの視線が波留に向けられる。一瞬、視線が合った。 その一瞬後、ソウタは波留から僅かに視線を外した。しかしすぐに目礼を改めて行ったため、その印象は霞んでいった。 「では、失礼します」 ソウタの口から小声が漏れた。その言葉の通り、彼は杖を器用に使って踵を返す。その態度に波留も別れの声を掛け、自動ドアを開いた。そこからソウタは出てゆき、秘書型アンドロイドがマスターに退出の申し入れをした後に続く。 ふたりが出てゆき、自動ドアは閉まる。マジックミラー形式の壁面は、室内からは外を透過出来る。波留の視線の向こうでは、ソウタとホロンが歩いてゆく姿があった。ふたりとも背後を振り向く事はない。 もっともソウタは松葉杖のために姿勢変更が通常の人間より難しい事情もある。それに外部から事務所内を見通す事は出来ない壁面である以上、振り向いても無意味だった。 波留は壁面から視線を外す。そして、左手を見た。差し伸べたままにしていたそれに視線を落とす。掌を翻らせ、自らの顔の方へと向けた。 握手を求めたのにしてくれなかったのに、何か他意はあるのだろうか。ふと彼はそんな事を考える。しかし答えを得るには情報が少ない。 それに、他意があると考えるという事は、ソウタに疑念を持つ事に繋がる。彼は、理由もなくそんな事はしたくなかった。 波留はその左手の掌を見たまま、沈黙している。そんな彼をよそに、灰色基調のぶち猫は相変わらず黄色い椅子の上で丸くなり惰眠を貪っていた。 |