波留の事務所が電理研部長代理から依頼を委託する話となった今、その両者は依頼を詰めていく事とした。
 格好だけならソウタはケーキを携えて世間話をしに来たようにしか見えないのだが、彼は電脳化した人間でありここはメタルへの常時接続を可能とする人工島である。その気になれば依頼内容のファイルを電脳内から取り出し、波留の電脳へと送信する行為は容易かった。
 そして彼が伴っている女性型アンドロイドとは秘書型だった。委託先への円滑な説明のためのデータ類は彼女が端末として管理している。よって、彼らはすぐに依頼の話へと持ってゆく事が可能だった。
 彼らを受け入れた波留の側にしても、このオフィスはメタルダイバーの事務所として内装が設置されている。託体ベッドやメタルダイブのサポート用端末は基より、通信用端末についても一般家庭のレベルを超えたものが運用されていた。それを用いて彼は以前、電理研から持ち込まれた依頼に対して充分に対応していたし、今回もそれが可能であるはずだった。
 依頼の話をするために、ソウタと波留は高台の応接スペースから下段のワークスペースへと降りてきた。そしてふたりの元に、給湯スペースからホロンがやってくる。
 彼女は今までお茶汲みの仕事をやっていたとは思えない程に、てきぱきと秘書の役割を見せる。大画面ディスプレイを持つ端末を起動し、その前に椅子を並べて波留とソウタを着席させた。波留はともかく、ソウタは右足が不自由な身の上のため、彼女は最小限の付き添いを行い、何かあった時のために控えていた。
 そしてその端末には依頼用データを表示させ、新たに彼らの電脳へと他のデータを送信していった。
 ――メタル内に一時期「イリス」と言うメタルアーティストが居た。性別年齢、一切不詳の存在である。
 その「彼」だか「彼女」だかは、今年4月以来新作発表をしておらず、以前電理研に調査を依頼した6月時点でメタルから消えた。
 しかし、最近「イリス」が復活したと言う噂がある。新作メタルアートを体験したと言う者も居る。それは本当なのか、本当だとしてそのメタルアートは「イリス」作なのか。一切判っていない。
 それらの真偽を突き止め、仮に「イリス」が復活したのならばその正体を探って欲しい――。
 依頼の概要とは、以上の通りである。
 ソウタが先にぼやいたように、この依頼内容自体は電理研にとっては「どうでも良い」事ではある。しかし依頼主は大口の株主であり、全くもって「どうでも良くない」存在だった。
 だからこの依頼をこなす者は、出来る限り真摯に対応しなければならない。成功失敗の如何を問わず、依頼人の心証を悪くしないように立ち回る事が要求された。
 とは言え、波留自身に依頼人の情報は一切開示されていない。依頼には必要のない情報だから、電理研側は個人情報の保護を盾にそれを拒む格好になっている。
 波留側も現状、その情報は特に必要とは思っていない。調査を進めて行くに従い、仮に依頼人の情報や接触が必要になるとすれば、その都度電理研に報告を上げてお伺いを立てると言う方針で、ソウタと波留は合意を得た。
 波留に与えられたデータは、前回の調査のログと電理研から依頼主への最終報告が第1である。
 前回の依頼はこの事務所でこなしたため、本来ならば端末や波留の電脳に残されていて当然のデータだった。しかし7月末のメタル初期化により、波留側における該当データは全て消失している。電理研側はバックアップログを取っていたため、復旧に成功していた。それを波留に開示した状況である。
 第2に渡されたものは、今回のメタル内に蔓延る「イリス」関連の噂の収集ログである。
 それは、依頼主から話を訊いた段階で、とりあえずオペレーター辺りが検索ロボットにメタルを巡回させ機械的に収集したログだった。そのログの精査は全くされていない。正式に依頼を受けた人間が調査への糸口として使えと、そう言う目論見があったようである。調査初期以前のログだと波留は思うが、ありがたく使わせて貰う他はないだろうとも思っていた。
 電理研からの委託依頼であるため、依頼主とメタルダイバーとが隔絶した関係に陥る事になる。そして電理研自体も色々な意味で波留に対してこの依頼を投げっ放しにするだろう事は想像に難くない。電理研は依頼主に対して「現在メタルダイバーが調査中です」との論理のバリケードを展開し、波留からの最終報告を待つと言う態度に出ると思われた。
 つまり波留は、依頼主からも電理研からも、依頼解決を急かされる状況には余程の事がない限り陥らないと踏んだ。無為に引き延ばしては流石にクレームが入ってくるだろうが、ある程度は自由にやらせて貰える環境のようだった。そんな依頼を持ち込んできたソウタに、彼は感謝した。
 依頼を受け完遂する事による利益については、波留は電理研や依頼主からの申し入れをそのまま受け容れる事とした。
 これまでの不手際からの遠慮で下手にダンピングする行為は、却って不健全だと認識したからである。依頼主の考えはどうあれ、電理研――おそらくはソウタが主導しての条件設定だと思われる――が提示する条件は、彼らが最上だと思っているからこその提示なのである。それに逆らうつもりは、今の波留にはなかった。
 彼に具体的に提示されているのは、金銭補償のみである。この案件を完遂したからと言って、今後の彼に他の見返りがあるとは一切書かれていない。電理研の中枢に関わる依頼を再び回して貰えるとか、そんな甘い話は記載されていなかった。
 その扱いに、波留は特に落胆は覚えていない。それで当然だと思う一方、彼は必ずしも電理研の機密を求めていなかったからである。望むデータはメタルの海から手に入れる――そうするつもりだしそれが可能だと、彼は自身を認識していた。
 ある意味傲岸不遜な考えなのだが、彼は本当にそれをやってのけようとしている。それが紛れもない現状だった。
 だが、波留の内心を露も知らないはずのソウタの側には、若干の遠慮が現れている。「どうでも良い」依頼を持ってきておいてこれをこなしたからと言って現状回復には至らないとの後ろめたさが、この若き統括部長代理の脳裏にはあった。
「――波留さん。何か俺に出来る事って、ありませんか?」
「…と、仰られましても…」
 真面目腐った申し訳なさそうな顔でソウタにそう申し入れされても、波留は苦笑と共に戸惑う他なかった。むしろ、電理研に何もさせない、煩わせないために外部に委託させると言うのにと思う。つくづく律儀な青年だと半ば呆れさえする。
「そうですねえ…――」
 波留は顎に右手を当て、考え込む素振りを見せた。こうなったら何かどうでもいい事をでっち上げてでも、この青年の心を安らかにするしかないのかもしれないと思った。
 事務所に視線を巡らせる。途中、黄色い椅子が目に入った際には、そこに寝転がっている図々しい猫の存在に気付く。その瞬間、いっそ高級猫缶1年分でも請求しようかと思い至ってしまった。
 そんな馬鹿げた要求を口端に出す寸前、彼の脳裏にふと思い浮かんだ事があった。視線を中空に泳がせた後に、ソウタの顔へと導く。
「――無理なら別に構わないのですが…」
「何でしょう」
 波留から話を振られた事で、ソウタは勢い込む。隣の椅子に座る波留へと身を乗り出さんばかりだった。
「例のテロ事件以降に調査部に拘留されている容疑者の件なのですが」
「ああ…」
 ソウタは頷きつつ、眉を寄せた。具体的な事件名を出さずとも、彼らふたりの間には充分な共通認識が保たれていた。彼は口許に右手をやり、言う。
「それは今では調査部の仕事で、俺の管轄ではなくなっていますね」
「ですから判る範囲で構いません」
 波留はやんわりとした口調で語り続ける。しかしソウタにしてみれば、ちょっとばかり厄介な頼み事をされた格好になっていた。
 こちらが垣間見せた好意を捕まえて、難しい問題を持ち込む――確か前にもそんな事がなかっただろうかと、ソウタは思っていた。確か、10月に波留が海洋観測を行いたいと言い出した時にも、あの調整にかなり手間取った記憶が彼にはある。
 ともかく、波留からの質問を訊いてみない事には答えようがない。その考えの元に、ソウタは相手を手で指し示した。
 それに波留は頷き、口を開いた。あくまでも何気ない口調を保ったまま、問い掛ける。
「ジャック・シルバーの現況が判りますか?」
 
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