それから波留とソウタはショートケーキを半分ばかり胃袋に収めていった。その間交わした会話と言えば、他愛のない内容ばかりである。ケーキの甘みや茶葉に触れ、それに答える。
 逆に言えば、それ以外の話題にはなかなか行き着かなかった。例えば互いの現状などには、両者とも話を振ろうともしない。敢えてそこから目を反らし、眼前のケーキと紅茶に逃げていたのかもしれなかった。
 波留の側からすれば、ソウタの訪問の意図が未だに読めていない。そもそも自分がどうしてここに居ると判ったのだろう――その前提すら掴めていなかった。
 だからと言って不用意に探りを入れるのも、これまでのそれなりに親しい間柄を鑑みると却って失礼な気がする。結果として彼は会話に対して受け身に回り、ソウタが何を仕掛けて来るのかを待っていた。
 しかし、ソウタは何も仕掛けてこない。本当にお茶をしに来ただけのような状況だった。無論、ソウタがくつろいでいないこの状況において、それはあり得ないと波留は思っている。
 彼は口の中にまとわりつくクリームを、紅茶を含む事で解してゆく。ダージリンの苦みとフルーツの甘みとが相互に作用し合って良い味を引き立て合っていた。ふと水面に視線を落とすと、紅茶の水位はかなり減少していた。
「――マスター」
 そこに、傍らから声がした。波留はカップから唇を剥がし、顔を上げた。
 いつの間にかに、ホロンがそこに立っている。彼女は白磁のティーポットを手にし、蓋に片手を添えていた。その注ぎ口からはふんわりとダージリンの香りが浮き上がって来ている。
「紅茶が少なくなってらっしゃいますが、お代わりをお注ぎしましょうか?」
 ホロンは波留に対して上体を曲げてそう伺いを立ててきた。どうやら波留のカップから紅茶が無くなりそうな状況を悟り、すぐにサーブしに来たらしい。
 とは言え、簡単な話ではない。ホロンはこの応接スペースから席を外しており、カップの様子が目視出来た訳はない。それに紅茶が一番美味しい状態でサーブするのが接客の基本である。彼女は波留が何時飲み干すのかを予測して、次の紅茶をポットに準備していた事になる。
「…ああ。お願いするよ」
 波留はそう答え、カップが乗ったままのソーサーを持ち上げてホロンに差し出す。つくづく有能な接客用プログラムをAI内部で運用しているものだと思ってしまう。
 その答えを受けてホロンは微笑み、ポットを傾けた。紅い液体を波留のカップに注いでゆく。波留はその様子を見やっていた。
 不意に波留の目前に光がちらついた。波留は眩しさに目を細めた後に、目を凝らしてその正体を確かめる。すると、ホロンの左手首に銀色のブレスレットが填められている事に気付いた。その金属が、ガラス状の壁面から注ぐ陽光を弾いていた。――確かソウタ君に貰ったとか言っていたような覚えがある。波留はそう思い出していた。
 そのホロンの背後では、ソウタが自らのカップに口を付けている。彼のカップにはまだ紅茶は充分に残っているらしく、ホロンは興味を持たない様子である。波留は、その若者の表情が硬い事に気付いていた。
 ホロンが上体を持ち上げる。ポットの注ぎ口から紅い液体が途切れ、カップの水面が落ち着く。8分目の水位を保ったまま、揺れていた。
「ありがとう」
 波留は微笑み、礼の言葉を口にする。そしてカップを手にして顔の前に持ってきて、その香りを嗅いだ。鼻先に当たる湯気が芳醇な香りを湛えている。彼の主観において、その香りは1杯目のそれと大して変化していないように思えた。
 彼の前で、ホロンがソウタの方を向いた。波留にも確認出来るその横顔には、相変わらず人好きのする微笑みが浮かんでいた。
「――ソウタさんはどうなさいますか?」
「ああ…――」
 話を向けられたソウタは、ホロンを視線のみで見上げた。そして水面に視線を落とすが、やはり水位は3分の1程度を保っている。底が透過されている液体を眺めたまま、彼は言葉を続けた。
「…俺は、まだいい」
「了解致しました。――何かありましたら御遠慮せずにお申し付け下さい」
 ソウタの答えを受け、ホロンはポットを抱えたまま、ふたりに向けて深々と頭を下げる。そして踵を返し、再び立ち去って行った。
 白いブラウスに包まれている彼女の背中を、波留とソウタはふたりで見送っている。波留は一口紅茶を飲んだ後に、口を開いた。
「――メンテナンス、どうします?」
「…え?」
 波留の言葉に、ソウタは顔を上げた。怪訝そうな声を口から漏らす。
「あの日、結局やり損なったままじゃないですか」
「…ああ…――」
 色々と言葉を略したままだが、波留がそう付け加えられた時点で、ようやくソウタは思い至ったらしい。漏れる声は納得らしき様相に変化している。
 彼は軽く頷いた後に、ホロンが歩いて行った方向をちらりと見た。しかし既に彼女は再び給湯スペースのパーテイションの向こうへと消えている。
 波留が言う「あの日」とは、10月31日の事である。
 今となってはその日は「久島部長の脳核を狙ったテロリスト達が病棟占拠事件を起こしたが、数時間のうちに制圧された日」として関係者の記憶に刻まれてしまっている。しかしその日を迎える以前には、波留とソウタにとっては別の意味で特別な日となる予定だった。
 偶然にも彼らは、朝から占拠病棟に隣接するメディカルセンターを訪れていた。それが占拠事件の短期解決の助けにもなっている。
 だが朝の時点での彼らの目は、波留をマスターと仰ぐあのアンドロイドに向けられていた。しかしそれを始めようとした頃に彼らは事件に巻き込まれ、ホロンも事件解決のために運用せざるを得なくなった。
 そのため、ホロンに行おうとしていたメンテナンスは中断され、現在に至るまで再開しようとはしていない。
「少なくともマスター資格を持つ僕が同席していないと、彼女の設定変更は出来ませんからね。そして僕らはあれ以来、そんな状況を作れていませんでした」
 そこまで語った波留だったが、それ以上の言葉はなかった。そしてソウタも口を挟まない。沈黙を続ける。
 ホロンのメンテナンスを再開し完遂する――その状況を作れていない理由は、様々である。病棟占拠事件やそれに伴い事後処理、果ては波留の失踪と帰還後の内密な処分――事件の後、彼らの前には困難が転がっていた。とても、アンドロイドの設定にかまけている暇はなかった。
 しかし、占拠事件から既に2ヶ月が経過した。現状では、事件の捜査や処理は彼らの手を離れ、専門の部署に任せている。彼らはそれらのプレッシャーからも一応は解放された格好となり、時間的には余裕を確保する事も可能な状態となっていた。後は、互いの心理的な障壁の撤去が課題だっただろう。
 ――今日のソウタ君は、それを成しにここへ来たのではないか?波留はそう捉えた。
 そう推測すれば、辻褄が合うと思った。あのメンテナンスはそもそもソウタが言い出した事である。彼にとってはそこまでして実行したい設定変更のはずだった。
 ならば、彼の時間的余裕が確保された頃に波留を捕まえに来てもおかしくはない。今度こそ邪魔が入らない状況下において設定変更を完了したいのだろう――。
 そこまで考えた時点で、波留はティーカップの一式をテーブルの上に置く。表情から笑みを消した。真面目な顔でソウタに向き直る。改めて、訊いた。
「今日は、その話のためにいらっしゃったのではないのですか?」
 問われたソウタは口篭もる。口許を歪めた。
 そしてしばし沈黙した後に、彼はゆっくりと首を横に振る。その口から否定の言葉が漏れていった。
「…いえ、違うんです」
「あれ、そうなんですか?」
 今度は波留の方が怪訝そうな声を漏らしていた。彼は、自分の推測が外れていた事が意外でたまらなかった。
 軽く首を傾げる。そして思考を修正した。それならそれで、別の提起をしておこうと考えた。ある意味、ソウタに気を遣ってゆく。
「では…後日の予定を確保しておきましょうか」
「いえ、もういいんです」
 波留の持ち掛けに、ソウタは間髪入れずに反応した。慌てた風に声を出し、右手を胸の前で横に振る。
 その態度に、波留はまじまじと若者を見た。彼の気持ちが良く判らなくなった。以前はあんなに設定変更を切望していたのに、今では違うのだろうか?
 波留からの視線を受け止める羽目になったソウタは、まるで逃れるように俯く。視線の下にたゆたっているカップの水面からは未だに微かな香りが放たれていた。
「もうこのままでいいかなって…俺、そう思い直したんです」
 俯いたまま、ソウタはぼそぼそとそれだけを口に出した。それ以降の言葉は続いてこない。
「はあ…」
 対する波留の声は、一向に要領を得ない。結論は提示されたものの、そこに至るまでのソウタの思考の流れが全く判らなかったからである。彼とて理解しようと努めたが、眼前の若者は最小限の言葉しか用いてこない。どうやら波留に理解させようとする意図は全くないらしかった。
「――まあ…あなたの気がそれで済むのならば、彼女に不用意に負担は掛けない方が運用上適当でしょうね」
 だから波留は方針を転換した。設定変更を行わない事による利益を考え、言葉にした。
 言ってしまえば先のソウタは、充分に安定運用出来ているホロンの現行設定を、自らの好みに合わせようとしたのである。折角上手く運用されているシステムを不用意にいじれば、AIの設定は不安定になりかねない。変更を諦めてくれるに越した事はなかった。
「あの時…俺は一体何を焦っていたんでしょうかね…」
 俯いたまま、ソウタはそんな事を言い出していた。その口許は自嘲気味に歪んでいる。
 波留は無言のまま、彼の様子を見ていた。青年が抱える事情が推測出来ないため、下手に口を挟まない事にした。
 
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