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餌皿に盛り付けられたキャットフードを前にして、灰色基調のぶち猫はゆっくりとそれを食している。餌皿に突っ込んだ頭が微かに揺れているのと、少しずつフードが減少していく様が見て取れた。 事務所内の一段高い位置に、応接スペースは存在している。テーブルを円形に囲むように設置されたソファーに波留は腰掛け、来客であるソウタと向かい合った。 飼い猫に餌を与えた波留は、自らについては解いたままだった髪をいつものように結んでいる。しかし、それだけである。特に飾らない服装のまま、彼はソウタを出迎えていた。 「――お待たせ致しました、マスター」 ふんわりとした香りを伴い、彼らの傍らから声がする。波留がちらりとその方を見ると、黒髪のアンドロイドがトレイを掲げて現れていた。 その上にはショートケーキとティーカップがそれぞれ2セットずつ揃っている。そのどちらも来客側が揃えてきたものであり、ホロンが給湯スペースを借りて準備してきていた。 人好きのする微笑みを浮かべ、女性型アンドロイドはショートケーキの皿を持ち上げた。ソウタの側に置き、更にティーカップをその傍へと導いた。置いた直後にソーサー毎回し、位置を調整する。 それから同様の作業を、今度は波留の側に行う。彼はシンプルなイチゴのショートケーキが乗った皿を見送った後に続くティーカップに手を差し伸べた。感謝の言葉をアンドロイドに告げ、ソーサーを受け取る。 カップに注がれた液体の水面は紅い。そこから芳醇な香りが醸し出され、事務所内の空調に乗って来ている。視界の向こうで真面目腐った顔をしているソウタを見つけたが、彼はそのままカップの蔓に指を絡ませ、液体を一口啜った。 適温の湯に溶けたダージリンのほのかな苦みが、波留の口の中に広がる。砂糖もレモンも入れないままの茶葉のストレートな味である。 上々の味だと彼は思った。思わず昔を懐かしむ。とは言え、時間的にはそれ程遡らなくともいい期間であるはずだった。今年の4月から7月にかけての、都合81年の彼の人生の中ではほんの一瞬に過ぎない3ヶ月弱なのだから。 確かに彼は50年近い永い眠りに就いていたが、それを差し引いても30年程度の人生の中の数ヶ月である。しかもこの数ヶ月とは眠りから覚めた直後であり、彼の歴史からは地続きだった。しかしその7月から12月を迎えた現在までに、状況は大きく変化してしまった。 ホロンと言う名を与えられたこのアンドロイドは、設定上は波留を「マスター」としている。本来ならば彼女は波留に付き従い常時命令を受ける立場だった。 現在の彼女は波留ではなくソウタの補佐を務めている。 そもそも介助用として波留に貸与され、後には波留の事務所の事務全般をこなすための設定もされていた。しかし現在の波留は若く健康な肉体を取り戻しており、また事務所は閉鎖されてしまった。 そのために今の波留にホロンは必要ではない。だから彼は、貸与されていた電理研に彼女を返却した立場を取っている。 しかしシステム管理者として設定されていた人物がリアルから姿を消したため、彼女の設定変更は困難を極める状況に陥っていた。無論、電理研の動産であるアンドロイドである。初期化を伴う措置を行えば設定変更は可能だった。 結局、様々な事情を鑑み、その措置は成されていない。波留が行ったのは単純な命令のみだった。曰く「僕はいいから、ソウタ君の仕事を助けてやりなさい」――現状のホロンは、「マスター」からのその命令に従っているに過ぎない。 その奇妙な現状を、波留はホロンの動作から改めて悟った。一見して彼女は、波留の事務所をソウタと共に訪れた立場なのである。なのに、ケーキと紅茶を先に出したのは、自分が付き従うソウタの側だった。 礼儀としては明らかに反する行為だが、それも「波留をマスターと認識している」と考えたならばすんなり理解出来る行動だった。彼女にとっては「マスター」に対する「来客」をもてなしているに過ぎないのだろう。マスター設定と接客プログラムが成せる技である。 そんな風景と紅茶の味を感じると、波留はほんの数ヶ月前の日常を思い出してしまう。それ程までに、今のホロンの姿はこの事務所に馴染んでいた。 しかし、そんなものは人間側の幻想であるとも、彼は気付いている。 確かにホロンは4月から7月にかけて、この事務所で波留の補佐を行っていた。今のように来客に紅茶を出しての接客もこなしてきている。 しかし、今の彼女にその記憶はない。7月中に彼女はやむを得ない事態を経て初期化された。 4月11日に行ったメンテナンス時に取得したバックアップは現存していたために完全なる消失は免れたが、バックアップ以降のデータは全て消え去った。そしてその失われたデータは、そのまま波留の事務所の補佐を行っていた期間に当てはまる。今の彼女にとっては、この事務所を訪れるのは全くの初めての体験となっている。 ホロンは空になったトレイを胸に一礼し、応接スペースから離れてゆく。これから彼女は給湯スペースの片付けを行うのだろうと波留に推測はつく。しかしその後には下のワークスペースでメタルを用いた事務作業でも行うのではないか?――ほんの数ヶ月前の風景がついつい脳裏をよぎってしまう。 そんな思惟に浸っていた波留だったが、ふと向かい側をちらりと見る。すると、来客の青年も下の方を見ていた。応接スペースから立ち去ってゆくホロンの背中を追っていた。 それを認め、波留はカップごと持ち上げていたソーサーをテーブルに置いた。音を立てないように気遣ってはいたが、それでも僅かに接触音が静かな室内に響く。 室温に馴染み始めているせいか、ショートケーキを彩るホイップクリームの角が僅かに落ち丸くなっている。ホロンが立ち去るまでにはそう長い時間を費やしてはいないはずだが、着実な時の流れが確かにそこに現れていた。 「――ソウタ君」 ティーカップから手を離す。微笑みを湛え、波留は向かいの青年に呼び掛けた。 呼ばれた側は、それに弾かれたように反応する。パーテーションの向こうへと消えてゆく女性型アンドロイドの背中を視線で追っていた彼だったが、慌てた風にその視線をホストの青年へと戻していた。 「御用件をお伺いします」 そんなソウタの様子を波留はますます微笑ましく思う。表情からも笑みを絶やさないまま、台詞を続けた。 波留は手元ではフォークを取り上げ、ショートケーキの先端部分に押しつける。表面のホイップクリームと内部のスポンジケーキが難なく切り分けられて行った。 「はい…その…――」 ソウタは両手を膝の上に置き、かしこまっていた。その態度に反するように、口調は歯切れが悪い。真面目腐った表情を顔に貼り付けたまま、台詞が続いてこない。 青年の顔を、波留は微笑んだまま眺める。切り分けたケーキの先端にフォークを突き刺し、その一口分を口の中へと導いた。咀嚼するときめの細かいクリームとスポンジとが解け合ってゆく。そしてスポンジで挟み込まれていたイチゴのスライスの甘酸っぱさが程良い刺激となる。 これはソウタが選んだ店のケーキであると先に波留は訊いていた。実際に食べてみるとやはり味にも彼の妥協はないらしい――波留はソウタらしさを感じ取る。 「――これ、美味しいですね」 一口分を飲み込んだ後に改めて笑顔を浮かべ、波留はその気持ちをそのまま口に出していた。そんな波留に、ソウタが釣られたらしい。堅い彼の表情も緩む。 「波留さんのお口に合ったのならば、良かったです」 明るい声が青年の口から突いて出ていた。その態度に波留は微笑みを深めた。 彼は何気ない風にフォークを持ち上げ、ケーキの上に配置された1個丸ごとのイチゴに突き刺した。ぷすりと言う感触が手に伝わり、次いで果物由来の甘い香りが微かに漂ってくる。人工島では珍しい天然ものフルーツ特有の香りだった。 「僕は甘いものはあまり食べないもので、この手のお店は存じ上げないのですよ」 波留が言いながらフォークを持ち上げると、イチゴと共に底面に付着したホイップクリームがそのまま持ち上がってくる。クリームの欠片が落ちてこないか確認しつつ、彼はフォークの先端をそのまま口元へと持ってきた。イチゴの先端から軽く齧る。瑞々しい果肉の感触が歯に伝わり、果汁が口の中にじんわりと広がる。 「恥ずかしながら、俺もそんなに知らないんです。メタルの評判頼りに行った店で」 ソウタは照れたような笑いを浮かべ、そう言った。頭に右手をやり、髪を掻く。どうやら彼は通販や宅配ではなく、直にケーキショップに出向いて陳列ケース越しに店員相手に選択したらしい。その光景を、波留は思わず脳裏に思い浮かべてしまう。 年相応の青年の態度を波留は見つめつつ、口の中のイチゴを噛み砕いて飲み込んだ。フォークには残り半分程度のイチゴが残されていたが、そのままにして皿へと下ろす。 「本当に美味しいですよ。召し上がってみて下さい」 波留は左手でソウタのケーキの皿を指し示した。そこにソウタは視線を落とし、相好を崩す。格闘術を志した彼にとって所謂スイーツは専門外である。だが、美味しいと言われると料理する人間としては俄然興味が沸いてくるのかもしれない。 差し入れられた波留にしてみたら、何故ケーキなのかという心境ではある。確かにこの生真面目な青年らしくて微笑ましくはあるのだが、いい歳の男同士で向かい合ってケーキを突付くと言うのは何か違わないだろうか。 今は昼間だから仕方ないのかもしれないが、本来ならばビールの1本や2本とそれに対応したつまみでも携えてくるものではないか――フォークを繰り出しケーキを食しているソウタを眺めつつ、波留はそんな事を思っていた。 不意に、脳裏に別の人間との思い出が浮かび上がる。 波留は一瞬目を見開いた。 しかしすぐにその目を細める。その間も眼前に居るのは、短い黒髪の青年である。それを視界に認め、一瞬よぎった幻想を振り払った。 視線を落とすと、フォークに突き刺さったままの齧られたイチゴがある。彼はそれを取り上げた。フォークを口許へ導き、残ったイチゴを丸々口に含み、食した。今回は底面に付着したままのクリームと混じり合い、甘酸っぱさが増幅される。 ふと思いついた事がある。波留はそれを、何の衒いもなく口に出した。 「――ミナモさんにアドバイスして貰わなかったんですか?」 「…え?」 その台詞に、ソウタは顔を上げた。まじまじと波留を見る。何故その妹の名前が今出てきたのか、この兄には良く判らなかった。或いは、無意識のうちに理解を拒んだのかもしれない。 ソウタの視線の向こうでは、波留が紅茶を啜っている。その表情は穏やかだった。彼としては本当に何ら他意はないらしい。 「ミナモさんならこの手のお店に詳しそうなのに」 蒼井ミナモと言う名の少女は、ソウタの妹であり人工島中学校3年生である。彼女は高校進学に向けて忙しい日々を送っているが、それでも中学最後の日々を楽しんで過ごしていた。 放課後や休日に同級生達と喧しく繁華街に出向く日もあれば、喫茶店で会話を重ねる日もある。年頃の少女なのだから甘いものには目がないと想像でも判るし、実際に他者に垣間見せる日常からもそれは判る――それが波留の考えである。そしてソウタも同様の考えを持っていた。 しかし今回、ソウタはミナモに助言を乞う事はしていない。わざわざそんな事を訊くのは兄としてどうかと照れ臭さの方が先に立ったからである。或いはメタル内で店の評判を調べた方が、妹の主観よりも確実性があるだろうと考えたのもあった。 とは言え、ソウタが今問題にしたいのは、そこではなかった。しかし、挙げ連ねるのも何かが違う気がする。結果、控えめな台詞が兄の口から発せられる。 「――…波留さんは、ミナモとそう言う話をするんですか?」 「いえ、特にそう言う訳ではありませんが」 問われた波留は口許に微笑みを浮かべ、そう答えた。目を細め、その少女との行動を思い返し、口端に乗せてゆく。 「デートの際には、色々なお店に連れて行って頂いていますね」 「…そうですか…」 あくまでも穏やかに語る波留に、ソウタは眉を寄せた。フォークを口に銜えつつ、俯く。彼が出したその単語に過剰に反応し、微妙な表情を浮かべようとしている自分に気付き、それを懸命に制しようとしていた。 「先日の日曜も…おじさんの僕には目新しい事ばかりです」 カップを傾けて語る波留の表情は楽しげなそれである。そしてその台詞から、ソウタは自らの中学3年生の妹と眼前の実質32歳の男とが逢瀬を重ねている現状を思い知らされた。 そして「逢瀬」との表現が速攻で脳裏から沸き上がってきた事実に、彼は内心げんなりとする。おそらくは当人ふたりにはそんな気はまるでないはずである。仲の良い友人同士レベルの付き合いであるはずだった――少なくとも、大人の男の側に立てば。では、若い少女の側に立ってみた場合はどうなのだろうとソウタは危惧するが、それは彼にとってはあまり考えたくはない話でもあった。 ――自分の感情は独りよがりなものと判っている。それでもソウタは何故か、波留の弁に妙な苛立ちと微かな諦めとを感じてしまっていた。 俯いたソウタが波留から視線を外す。ふと床に何か見切れた物を認める。彼はそこを注視した。 若者の視線の先で、灰色基調のぶち猫が、のたのたと歩いていた。餌皿はいつの間にかに空になっている。猫はそのままワークスペースに至り、唐突に猫らしい敏捷性を発揮した。ひょいと飛び上がり、置かれていた椅子の上に飛び乗ったのだ。 だが、猫らしい動きもそこまでだった。彼はその黄色い椅子の上で丸くなり、そのまま動かなくなった。 その様子を見ていたソウタは何故か疲れを覚えてしまう。その椅子はこの事務所が機能していた当時、彼の妹の指定席として使用されていたからである。 彼としては今の話題との共通点を見出してしまうが、猫が人間ふたりの会話を耳にし理解している訳もなかった。あくまでも偶然の産物に過ぎないはずである。久々に人間が増えた事務所にて、猫は定位置とおぼしき応接スペースのソファーから追いやられてしまったのだろう。そしてたまたま目に付いたのが、あの椅子だったのだろう。 そんな行動を目にした人間が勝手に妙な思い入れを感じるに過ぎない。アンドロイドの行動のそれを同様だ――ソウタはそう内心にて独りごちていた。 彼の足許には白い松葉杖が無造作に転がっている。 |