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そこまで考えた時点で、波留はふと自らの電脳の隅に表示されているデジタル時計に意識を向ける。時間帯としては夕方を迎えつつあった。 ――そろそろ、餌の時間だ。波留はそう気付き、託体ベッドから上体を起こす。解いた長髪が首筋から背中へと流れて行った。右手首に引っかけられた黒いゴムに視線をやるが、とりあえずそのままにして足を床に着ける。 降り立った拍子に前屈みになり、髪が目元に掛かった。彼はそれを掻き上げて溜息をつく。履き直したスニーカー越しに感じる床の硬さを確かめつつ、彼はこのスペースを後にした。 廊下を抜けた先には応接スペースが存在する。そこに設置された広いソファーの上の何処かで、灰色基調のぶち猫が伸びているはずだった。或いは丸くなっているのかもしれない。ともかく「彼」は猫の本分を果たし、惰眠を貪っていると思われた。 餌皿にいつものキャットフードを供給してやった時点で、どうやって感知したのかその仰々しい名前の猫はのそのそと歩いてくる。そして決してがっつく事もなく地道に食した挙句、波留がふと思い出した頃には完食してしまっており、またソファーやら塀の上やらにて惰眠を再開しているのが常だった。 波留が多忙のために数時間単位で餌をやり忘れても、特に抗議の声を挙げられた記憶もない。もしかしたら数日餌を与えなくとも平然としているのではないかと疑いたくもなる程に、スローペースな我が道を往く猫だった。 飼う側にしてみたら非常に楽で助かる性分の猫ではあるのだが、それに甘える訳にもいかない。生き物を飼う人間の義務として、その世話を怠ってはいけないのだから。 そんな事を思いつつ、波留は戸棚の前に屈み込み、下の扉を開ける。そこにキャットフードの缶がいくつか並んでいた。彼がこの事務所に篭もるに当たり、自分用の食事と共に買い置いて持ち込んだ諸々である。 彼は缶のひとつを手にして立ち上がり、餌皿の元へと歩いてゆく。ソファーを一瞥するが、そこに丸くなっている猫は未だ餌の気配を感知していないらしく、微動だにしていなかった。 そんな時、室内にチャイムが鳴り響いた。 それは何の変哲もない呼び鈴である。天井に設置されたスピーカーから聞こえてきて、屋内に染み渡るように響き渡っていた。 それを聞きつけた波留はそのスピーカーを見上げた後に、首を傾げる。怪訝そうな表情を浮かべていた。彼は餌皿の前に至っていたが、とりあえず缶をその傍らに置く。プルトップを持ち上げて開く事なくそのままにして、玄関へと向かった。 寸前でお預けを喰らっている格好の猫なのだが、やはり全く反応を見せない。ソファーの傍らをすり抜けてゆく波留に目もくれず、寝こけていた。 玄関に向かう波留は相変わらず怪訝そうな様子を継続している。何故なら、玄関先には「CLOSED」の看板が提げられたままだからだ。 ここは確かに以前は調査事務所として門戸を開いていたが、閉鎖されて早4ヶ月以上を迎えている。基本的に電理研を得意先としていた事務所ではあったが、これだけの期間を置けばその他の依頼主へも閉鎖は周知されているはずだった。 そもそも玄関先に閉鎖のサインを掲げているのである。更に、ガラス状の壁面や自動扉もマジックミラーの設定とされていて中の様子は外からは伺い知る事は不可能である。この事務所に誰か居ると考える通りすがりなど、居る訳もないはずだった。 それでも何らかの事情があるのかもしれない。波留はそう考える。例えば、何かの宅配便の送り先がここに設定されていて、配達者が宛名の人物の在宅の可能性を否定出来ない事も考えられる。 特にこの人工島において、宅配の任はPGと呼ばれる円筒状のロボットが担っている。彼らは、人間よりも明らかに融通は利かないだろう。一応、呼び鈴を鳴らして内部にアピールを試みてもおかしくはなかった。 その手の誤配や他に考えられる勘違いが存在しているのならば、否定してやるべきだった。波留はそんな事を思いつつ、玄関先に立つ。壁際のコンソールに手をかざし、自動ドアの先を見通した。 そこに立っている人影を認めた瞬間、波留の表情は呆気に取られるものへと変化していた。右手をコンソールの上にかざしたまま、動きが止まっている。 ガラスを隔てた向こうには、短い黒髪の青年が立っている。 あちら側からマジックミラー状になっているため、室内の様子を伺う事は出来ない。そのために立っている青年と波留とは、微妙に視線が合わないような立ち位置となっていた。 呆気に取られた表情のまま、波留の唇が動く。立っている人物の名を紡ぎ出した。 「――…ソウタ君?」 その声は、コンソールを介して外の玄関設置のインターフォンへと伝わってゆく。その声に弾かれたように、外の青年は反応した。聞こえてきたインターフォンに視線をやり、波留に横顔を晒すに至った。 「――波留さん。上がってもいいでしょうか?」 真面目腐った響きを持つ声が、インターフォンを介して波留の元へと返ってくる。玄関の自動ドアに向き直った表情もまた、真面目ぶっていた。 波留はそんな彼の姿をざっと見やる。彼とは暫く会っていなかった。それ以前に会ってきたにせよ、それは電理研内部の部長オフィスだった事が多い。そうでなければリラクゼーションルームでの立ち話だった。 そのため、電理研制服に白衣を羽織ったスタイルで見慣れてしまっていた。それがこの蒼井ソウタと言う名の青年が、電理研統括部長代理の地位を得てからの正装である。 ところが今日は違う。青いシャツにジーンズを纏い、御丁寧にもベルト状のバッグを提げている。どう見ても私服である。 電理研外である以上、それが当然なのかもしれない。しかし波留には意外に思えてならなかった。その服装が、まるで7月以前を思わせる事も、その印象をより強めている。 唯一違うのは、彼が松葉杖を突いている点である。そうやって彼は右脚を庇っていた。そしてそれこそが、7月以前との絶対的な違いだった。 戸惑いつつも波留はコンソールを操作した。彼にとって、ソウタは馴染みの相手である。どんな事情があるかは判らないが、その訪問を断る要素はない――そう思いつつ、ガラス状の自動ドアを開く。 途端、爽やかな暑さを含んだ外気が室内に流れ込んできた。そして眼前に立つ若き青年がぺこりと頭を下げる。 「波留さん。アポもない突然の訪問で申し訳ありません」 「いえ…」 波留は笑みを浮かべて対応する。しかし状況が飲み込めない。――そもそも自分達は訪問されるような間柄だっただろうか?以前は確かにそんな間柄だったかも知れないが、今となっては関係は冷えきっていたはずだった。 そして波留の自宅ではなく、この事務所を訪問してきた理由とは一体何だろうか。先の調査によって波留の自宅は、ソウタの知る所となっている。その一方で、こちらの事務所は7月末以降閉鎖されていると理解しているはずだった。 彼とは一切の連絡を取っていなかったのに何故自分がここに居ると、当然のように訪問してきているのだろう――波留の内心にはそんな疑念が沸き上がる。 そんな彼に、別の声がもたらされる。 「――マスター。お久し振りです」 その声に波留は初めて、ソウタの背後に女性型アンドロイドが控えていた事に気付く。彼女は波留にそう挨拶し、深々と頭を下げてきていた。 「タイプ・ホロン」と総称されるシリーズであるそのアンドロイド達は、人工島の公的機関で見掛ける事が出来た。彼女らにはその役割毎に様々な機能ソフトがAIにインストールされ、人間の代わりとして各々の業務を果たしているのである。 今、波留の前に立っているその彼女も、電理研に所属するアンドロイドである。統括部長代理を補佐する秘書タイプに特化した機能を与えられている――表向きはそう言う事になっている。実情は色々と異なるのだが、少なくとも現在行っている業務については、その通りだった。 電理研に所属する立場ならば当然ながら業務別の制服が支給され、それを着用する義務がある。それは人間の職員も所属アンドロイドも変わらない。このホロンにも秘書としての制服が与えられており、電理研内部で彼女の姿を見掛ける際はそれを着用しているものだった。 しかし、今日のホロンの服装は違っていた。彼女は白いブラウスに首許には紺色のスカーフをネクタイ状に巻いている。黒のタイトスカートを履き、そこからはグレーのストッキングで覆われた両脚が現れていた。ソウタ同様、明らかに私服である。髪型も電理研内とは違い、単なるポニーテールだった。装着している眼鏡のモデルも変更していると言う念の入れようである。 電理研から外出するのだから、服装を変化させてみたのかもしれない。公的アンドロイドの存在はどうしても人間からは目立ってしまう。或いは、目立たせるために制服を決めているのだから。逆を言えば、彼女らが人間型である以上、装ってしまえば誤魔化しが可能だった。 ソウタが私服なのは、「電理研統括部長代理」と言う地位を明らかにしての外出ではないからだろう。ならば、彼に随伴する立場のアンドロイドが目立っていては意味がない。そういう事情から、ホロンの服装も人間同様のそれに変化させたのだろう。 一般的な常識を鑑みれば、そう言う事なのだろうと波留は思う。しかし、彼には7月以前の知識があった。そして目の前のふたりの姿は、あの7月以前そのものだった。わざわざそれに合わせてきた彼らに、何か他意はあるのだろうかと勘繰ってしまう。 「――波留さん」 自らを呼ぶソウタの声が、彼の耳に届いた。その声に、波留は視線のフォーカスをアンドロイドではなく人間の青年へと合わせた。 そこには、ピンクの紙箱を左手に掲げているソウタの姿があった。 その紙箱には何処かの店らしきロゴがプリントされている。柔らかな海風に乗って微かに漂ってくる匂いは甘い。どうやらケーキかそれに類する甘いものが収まっているようだった。 彼は真面目腐った顔のままそんなものを持っている。甘い香りを保つピンクの紙箱とその表情との対比は、如何にもアンバランスなものを波留に思わせた。 「これ、手土産です」 ソウタはあくまでも声色も態度も、生真面目さを崩さない。それに波留は唖然としていた。微笑ましく感じればいいのか、それとも戸惑うべきなのか。彼には全く判らなかった。 彼は無言のままに、ソウタを一瞥する。隣に控えているホロンは畏まった姿勢を保っていた。スーマランと呼ばれる古いブランドのグラス越しに見える両眼には人好きのする笑みを浮かべている。それは、秘書型アンドロイドとしてのごく自然な表情であるはずだった。 しかし、どうにもこんな状況なのだから、波留には目の前のふたりに別の印象を覚えてしまう。堅苦しい青年がアンバランスな手土産を携えて訪問し、その隣に控える女性はまるで――と、そこで波留の空想は中断された。それ以上は、どうなのだろうと考えたからである。 どちらにせよ――この兄は、何だかんだで、妹さんと似ているらしい。 波留は、そんな事を思う。そんな彼らの間を、一陣の海風が吹き抜けて行った。 |