波留がゆっくりと瞼を開いてゆくと、その眼前に広がるのは広い天井だった。室内灯がほのかに天井全体を照らしている。
 電脳内のダイアログから、正常にログアウトした事を確認する。チェックプログラムを通しても、電脳にノイズやクラックが残された形跡はない。端末には今回の観測ログが溜め込まれている。そこにもバグは見られなかった。
 全ての観測は正常に行われた。それは彼のダイブの通常である。しかしログは冷静に全てを記録していた。
 彼は自らを観測装置と位置づけている。それは50年前のリアルの海へのダイブと同様だった。だから彼が感じた全てをもログとして記録するように設定している。そのログに、ダイブのラストに彼が感じたものを残していた。
 託体ベッドに背中を預けたまま、波留は電脳内にてそのログをざっと確認している。自ら感じたものがこうして客観的に記録されている様を目の当たりにした。
 ログを確認するまでもなく、彼の記憶に深く刻まれたものがあった。
 先程感じた奇妙な体験は、何も初めてではない。数ヶ月前に似たような体験をしていた。それがすぐに連想される。
 メタルアートとはその名称の通り、メタル内での閲覧を前提としたアート作品である。その作成者達は、リアルでは作成出来ないような、脳に直接訴えかけてくるような作品を作り出す事が出来ていた。
 その中では一際異彩を放っていたアーティストが存在していた。しかしその活動期間は短く、数ヶ月前の時点で既に新作の発表はない。天才故の苦悩に見舞われているのか、愛好者達に様々な憶測を呼びつつもその引退が半ば受け入れられていた。
 そのアーティストの通り名は、作品に遺された署名から「イリス」とされていた。
 一時期はパトロンに名乗りを挙げるべく複数の資産家がそのアーティストの手がかりを掴もうとメタルダイバーを雇って調査に当たっていた。波留も電理研を介してその依頼を受けた経験がある。
 そして見事彼はそのアーティストの所在を探り当てた。しかしその結果は依頼者の望む所ではなかった。仲介した電理研の報告書においては「イリスはメタルから消滅した」と結論付けられている。
 電理研の主要株主であったその依頼者に肩透かしを喰らわせた格好になるのだが、事実それ以来イリスの新作発表はない。その報告は愛好家達に伝播してゆき、各々に落胆をもたらしていった。それがこの数ヶ月の出来事だった。
 ところが、波留が先程感じたメタルアートは、紛れもなくイリスと同様の手法で作成されたものだった。
 イリスが得意としたのは「共感覚」でのメタルアートである。
 通常、人間の五感は固定されている。目は視覚を司り、耳は聴覚、鼻は嗅覚――などと相場が決まっている。それが人間の身体能力の常識だった。
 しかし、人間の感覚とは、突き詰めて考えれば脳に統合される。目も耳も鼻も感覚器官に過ぎない。ならば、別の観点から感覚器官に刺激を与えたならば、普段感じない方向から「感覚」を得る事が出来るのではないか?
 事実、数字や文字、音と言った概念に色を「見る」人間は、ごく僅かであるが存在が確認されている。また、それらとは別の概念にも、同様の事例が存在していた。それは通常の人間が使用しない箇所の脳を活性化しているからと言われている。
 殆どの人間には、その芸当は著しく困難である。しかし、脳で何かを直接感じ取る事を可能とするメタルにおいては、どうだろうか?
 メタルアートにおける共感覚の利用は、全ての人間に対して門戸を開いている。普通の人間には体験が不可能とされていた刺激的な感覚に、愛好者は少なからず存在していた。
 そんな彼らに、イリスの作品はもてはやされていた。
 しかしながら脳に刺激的な感覚を直接フィードバックするのならば、メタルアートを介さなくとも良い。アンダーグラウンドなメタルコミュニティを含めるならば、その手の体験は少し潜れば誰しも可能だった。
 イリスのメタルアートはあくまでも「共感覚」の体験である。目で聴き鼻で味を感じ取る――そのように感覚器官を介して脳に感覚を通してゆく。それは脳に直接キメるメタルドラッグとはまた別の刺激と言えた。
 ――今回のメタルアートも、共感覚を利用したものだ。それは紛れもない事実だろう。
 波留はそう考える。しかし、だからと言って、これがイリスが成した技であると結論付けるのは早計だとも感じていた。
 イリスは――彼女は引退したのだ。あの作品を作り出す能力を失っている。それに思い悩んでいたのは事実である。波留は先の調査でそれを掴んでいた。苦悩の果てに電脳自殺に走った彼女の意識をサルベージしたのは、他ならぬ彼自身なのだから。
 しかし、その一方で波留は知っている。
 彼女は、自らの世界を取り戻すための一歩を踏み出していた。
 「光」を失った彼女は、「光」を取り戻そうとした。一旦得てしまったその「光」を手放す事によって――。
 その念願が、今となって叶ったとも考えられる。
 彼女は人工島を離れたが、メタルは世界中に広がっている。現在の逗留先から新作を発表してきたのかもしれない。先程波留がメタル内に感覚を広げた挙句、その一端に触れたのかもしれない。
 とは言え、現時点にて結論を導き出すには、情報が足りていない。ログをもう少し精査すれば、メタルアートの発信区画を割り出せるかもしれなかった。
 
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