現状は把握した。そう思い、波留はバイザーの片隅に表示されているエアの残量ゲージを視界に入れた。
 それを見るにエアにはまだ余裕はあるが、安全な状態で帰還するに越した事はない。散布したガイドバグに自動観測モードに変更し、自らはログアウトの手続きに移ろうとした。
 その時、彼の聴覚に水音やアラート音以外の音が響き渡った。
 波留は思わず顔を上げる。僅かに瞠目した。
 そして、首を巡らせて顔の向きを変える。音が何処から聞こえてくるのか、その方向を確かめようとした。
 それはとても微かな音である。しかしメタルの海にダイブしている際には聞こえる訳もない音色のため、非常に異質に目立って感じられた。
 波留は一旦上向かせた顔を俯かせ、耳元にそれぞれの手を添える。両目を細め、意識を聴覚へと集中させた。ヘルメット越しにではあるが、まるで耳を澄ませるかのような仕草を見せた。
 彼の耳に微かに聞こえてくる音とは、ある旋律だった。
 そして彼がその旋律を耳にしたのは、これが初めてではない。彼自身が知覚しているだけでも、3度目のはずだった。その履歴を脳内で追うと、彼の意識が鮮明になってゆく。その旋律を追尾するべく、意識を研ぎ澄ませて行った。
 ――まだ、久島の気配がメタルに残っているのか?
 彼の脳裏に、その想いがよぎる。
 波留は、7月のあの日、メタルに解けた親友を想っていた。その旋律を耳にし、追っていったならば、久島の記憶に辿り着く。少なくとも今までの2回はそうだった。ならば、3度目の今回もそうなのではないか?
 とは言え、その論理には反証も存在する。それは、彼の脳内にカウンターとして発生していた。
 ――久島の記憶は最早全て、あのAIが回収してしまったのではないだろうか?
 波留は久島の知識と記憶を受け継いだ――そう自他共に認めているあのAIの存在を思い浮かべた。
 あのAIは現世に出現して以降も、自分が引き継ぎ損ねた久島のプライベートに分類されるその他の膨大な記憶をも、メタルから回収し続けていると言っていた。アバター状態ではあったが、先日彼の元を訪問した際には「彼」は限りなく久島へと近付いていて――。
 そこまで思考が至った時点で、波留は首を横に振る。横道に反れた思考を振り払った。そして方向修正を加える。
 ――彼にも、回収出来ていない記憶は存在している。
 あの時、彼はAIとしての機構上、それが存在すると述べたはずだった。
 波留はそう考える。
 曰く――久島が「殺される」直前の記憶こそが、それに当たる。それを回収し追体験する事は、AIにとって臨死体験させられるに等しい。だからこそAIは可能な限りそれを回避しようとするのだと。
 ならば、その記憶だけがメタルに遺されているのだろうか。
 ――僕に回収されるのを待っているのだろうか。
 波留の瞳に、昏い光が宿った。無意識のうちに眉を寄せ、眉間に深い皺を刻む。
 脳裏にも、瞳の色に似た想いが去来する。
 彼の意識が鮮明になってゆく。冷静な怒りめいた感情が、彼の感知能力をより高めて行った。
「…そこか」
 堅く結ばれていた唇が解けた。彼は自らの口で、それを発した。
 メタルアバターが声を発する事態は珍しい。電通形式で会話するのが常だからである。しかし今の彼は敢えてそれを成していた。それは彼にとって無意識の行動である。そしてそんな行為に出たならば、リアルに遺された彼の肉体も同様の言葉を口走った可能性が高い――メタルダイブ中とは言え。
 ともかくメタルの波留は、ゆっくりと右手を前方へと伸ばす。開いた掌が、展開されたままのダイアログに触れた。
 途端、そこに光が生じる。波留はそのダイアログに意識を接続し、遠隔操作でその先のメタル領域を綿密に探索してゆく。旋律が聞こえてきたその区画のバブルやグリッドのひとつひとつを見落とさないよう、思考を広く拡散した。瞼を伏せ、視覚を遮る。聴覚と右手の触覚に全ての感覚を割り振った。
 その時だった。
 光に触れている右手の指先が、まるで電流に触れたような痺れを覚えた。そして、瞬間的に全身にその電流が駆け抜けてゆく。波留はまるで雷に打たれたかのような感覚に陥った。反射的に両目を見開く。短く息を吸った。
 硬直した身体に何かが拡散し、満ちてゆく。総毛立つような感覚だった。メタルダイブスーツに全身を覆われているのに、産毛に感じるのは何か別のものであるような錯覚に捉われた。
 波留は、自らが右手を突き出したままである事に気付いた。次いで、自分がメタルの海の中に浮かんでいる状態である事も思い出す。
 それらは確実に自らの意志で行っているはずだった。しかし、その記憶が一時的に飛んでいた。
 視界に入る、突き出された右手を見やる。意識して指を動かそうとしてみると、何処か他人事のように意志は伝達され、指がぎこちなく曲げられていった。
 まるで自分の身体が自分のものではなくなったような感覚すら覚える。呼吸すら意識しなければ行えないような、そんな感覚に陥っていた。
 視界に広がるメタルの海が、別のものに見えてきた気がした。深い洞穴状の地点のために暗く、バイザーの光に照らされた視界ではあるが、そこに別の要素が含まれていた。
 微弱な光に照らされてきらきらと輝く波紋は、不思議な音を奏でているようで――。
 …音?
 そこまで思い至った時点で、波留は首を傾げた。曲げられた右手の指を視界に入れる。その指先に感じるものとは、柔らかな光だった。
 そこで、波留は気付いた。
 ――感覚が入れ替わっている。
 目で音を聴き、触覚で見ている。そして耳元に聞こえるものは、何かの味となっている。普段使用されないような感覚が脳に統合され、まるで雷にでも打たれたかのような刺激的な体験となっていた。
 その比喩すら、おそらくは違うのだろうと波留は自認する。例えようもない、もっと直観的かつ総合的な感覚だった。身体全体でそれを感じ取っているが故に脳が活性化しているかのような――。
 これはメタルアートだ。
 それも、並大抵の作品ではない。
 思考の遠くで、アラート音が鳴り響いている。波留はそれを現実のものなのかそれとも研ぎ澄まされた感覚の混乱がもたらしているものなのか、一瞬判断が付きかねる。それほどまでに、そのメタルアートは彼に刺激をもたらしていた。
 意識して一呼吸ついてみると、ぼんやりと視界にアラートダイアログが表示される。そこにはエアの残量減少が警告されていた。
 早くログアウトしなければ、安全にリアルに戻れなくなる。特に今の彼はバディ抜きでメタルダイブしている。バディの代わりとして専用端末で安全機構は発動してはいるが、それでも自分の身は自分で守らなければならなかった。
 このまま感覚に溺れていては、危ない所だった。波留はそう独りごちる。その一方で、正常な感覚を取り戻しつつある身体に名残惜しさを覚えていた。あの刺激が徐々に消え去ってゆくのを残念に思っていた。
 ともかく彼はメタルダイバーの技能として、着実にログアウトのコマンドを進行して行った。
 
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