2061年12月現在、波留真理と言う人物の身分とは、ダイビングショップ「ドリームブラザーズ」における非常勤店員である。
 それ以外の肩書きを、彼は持たない。ごく一般的な人工島の住民だった――最先端の科学技術で運用され「楽園」を標榜する人工島の入植資格を有している時点で「普通の人間」ではないのだが。
 ともかく彼は、確かに以前には、人工島を支配する巨大企業電子産業理化学研究所――通称電理研に重用されたメタルダイバーではあった。今年の4月、当時の統括部長だった久島永一朗によって突如見出された彼は、そのまま部長の懐刀扱いで重要な案件に関わり続けた。その扱いは、部長代理へと支配権が委譲された後にも変わっていなかった。
 しかし、彼の優遇された身分も、11月から依頼を斡旋されなくなった事で婉曲的に終わりを告げている。
 波留は電理研職員の地位にはない。他のメタルダイバー同様に、電理研から案件を委託していた立場だった。そのため、明確に解雇を告げられるような事もなく、単に関係がフェイドアウトしていっただけだった。
 メタルダイバーが電理研を去る事自体は珍しくはない。意識を危険に晒す仕事のため、技量の低下に危機感を覚えた人間は自発的に廃業してゆくものだからだ。或いは自分は辞めたくなくとも、それまでの仕事振りを示したレポートから電理研側に「分不相応」と判断され仕事を回されなくなる事も多い。
 しかし波留の場合は、これまでの重用振りが前提にある。なのに突然電理研を去っているのだ。これでは他の委託メタルダイバーの間に波紋を生んでもおかしくはなかった。
 最終盤において、波留は他の委託メタルダイバーを統括運用する現場責任者を担っていた。そのため、彼を知るメタルダイバーは多い。
 そんな彼らは無責任かつ波留への心配から、この事態に憶測を巡らせるのだが、当の波留は電理研を一切訪れようとはしない。そのため、電理研内の他業務へと転職した様子でもなかった。
 勇気と無駄な行動力を持つ人間は、波留が勤務しているとの件のショップに直に出向いてみたりもしている。だが、現状に不満などなさそうにインストラクターをやっている彼の姿を遠目に確認して脱力し、当人に声すら掛けず仕舞いだった。
 もっとも、この店の主達が実際に波留を色々と問い詰めてみても、笑顔で交わされてしまっているのが現状だった。
 「ドリームブラザーズ」店主たるフジワラ兄弟には、他のダイバー達よりも波留の事情を判っている自覚があった。
 色々苦労した彼が、何だかんだで海に喜びを見出したのならば、それでいいのかもしれない。リアルの海を我が物と出来ている今の彼ならば、無理にメタルに潜る必要はない。わざわざ自意識を危険に晒してまで電理研の仕事を受ける義理はないのだ――彼らはそう結論付け、自分達を納得させていた。
 一方、電理研の仕事を委託する程のメタルダイバー達は、一定程度の技量が認められてこそである。その技量を生かし、波留と電理研との間に何があったのかを解き明かそうとしたダイバーも居ない訳ではない。
 電理研が、元々は波留の案件を他のダイバーに回した一件があった。先月中、メタルダイバーのチームがメタル内の重大な不確定要素を排除した――その案件である。これに同席し、波留と電理研との間に何らかの不和が発生しているのではないかと疑ったダイバーは多い。
 その疑問を立脚点として掘り下げて行けば、「つい最近波留が人工島に居ない時期があった?」とか「評議会の動きを見るに、何か大きな事件があったらしい」とか「電理研は久島部長の意識を復活させようとしているようだ」とか――違法なハッキングを用いるまでもなく、全くの部外者だった彼らにも当たらずとも遠からずと言った微妙なラインの情報を得る事が出来ていた。
 が、彼らの独自調査もその辺りで終止符が打たれている。
 これは誰かから命じられた案件ではなく、同じような事を調べているダイバー達が集結して情報交換を行った訳でもない。自分の思うがままに調べただけだった。明らかに能力に突出した人間でない限り、その手法では真実に辿り着くのは難しい――それこそ、波留真理のような最高レベルのメタルダイバーでない限り。
 或いは、単に電理研の高レベルセキュリティ区画に秘密が埋まっている可能性が高かったのも、彼らに二の足を踏ませた大きな理由である。独立心溢れた人間が多いのがメタルダイバーの特性だが、果たしてこれが命と精神の危険を冒してまで踏み込み調べたい秘密かと問われたら、立ち止まってしまうだろう。
 そして案外、彼らの冒険心を萎えさせた一番大きな理由は、どうやら波留自身が現状を肯定しているらしい事だった。
 「秘匿された情報を正義のダイバーが暴く」――この構図を描くためには、波留は「巨大企業に蔑ろにされた一私人」であるべきだった。しかし電理研を干されたはずの波留は、悠々自適にダイビングショップで働いてるらしい。メタルダイバーの間にも、その噂が浸透してきていた。
 そのうちに「実は円満に契約終了したのではないか」とか「実は波留の方に落ち度があって、電理研は大人の対応をしているだけなんじゃないか」とか、無責任にもそう言う話題に方向転換する向きもあった。そしてそうなってしまえば、彼らの波留への興味は勢い萎んでしまう。
 何にせよ、波留真理と言うメタルダイバーは突出した能力の持ち主であり、同じ委託ダイバー達から信頼を得ている人物だった。しかしその仕事を受けなくなった人間をいつまでも想っている程、彼らには余裕はなかった。去っていった仲間を何時までも気に掛けていても仕方がないし、伝え訊く波留の現状肯定振りにはある意味裏切られた気分にも陥ったからだ。
 結果的に波留の不在は、電理研委託メタルダイバー達にも1週間のうちには受け容れられ、過去の物とされていた。そしてその方がいいのだろうと、波留に近しい上に委託メタルダイバーを続けているフジワラ兄弟は認識していた。
 その兄弟にとって気になるのは、もっと別の話である。
 メタルの仕事を受けなくなったはずの波留が、ダイビングショップへの出勤率をそのままにしている点が不可解だった。むしろ、メタルダイバーでなくなったならば、自分達のショップに常勤する勢いでいいはずだと思ったからだ。
 もっとも、リアルの海に潜りたい際に、自分達の店を通す必要はない。波留程の本格的なダイバーならば機材類を自宅に準備してしまう事も可能だろうし、沖合に出るにもボートの類は必ずしも必要とはしないからだ。
 そもそもフリーダイビングならば必要な装備は激減する。本来ダイビングには安全上の観点からバディが必須だが、波留レベルならば単独でも問題はなさそうだった。それに、人工島周辺ならば海中でもメタルに接続可能である。いざとなれば波留自身が救難信号を発信する事も出来る。
 そう考えれば、自由に潜る時間を確保したいのならば、ダイビングショップに縛られるべきではないだろう。ショップに常勤していれば海に潜れる環境が確保されるとは言え、客商売なのだから。どうしても客の安全とサービスに目を配る必要性が生じ、彼は自由ではなくなる。
 以前から彼らは「潜りたいなら機材は自由に使っていい」と波留には申し送っている。それが、波留に似合った賃金を払えない代わりとしていた。その申し送りがあるにせよ、波留には遠慮があるのかもしれない――。
 結局、フジワラ兄弟も波留への疑問を中途半端な状態のままに放置し、それ以上の追求はしない。ダイビングを楽しんで平穏無事に暮らせているのならばそれでいいと自らを納得させていた。
 
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