そのAIの眼前の少女は、顔に押し付けた携帯端末へと懸命に呼び掛け続けている。大きな声を出し、時折調子を変え、相手が何らかの反応を返すのを待っていた。
 或いは、呼び掛け続ける事が重要だった。そうする事で何らかの兆候が現れるかもしれない。モニタに投影されたメタルダイバーにちらちらと視線を送りつつ、彼女は携帯端末を持ってその名を呼び続けている。
 久島の義体はモニタを注視している。現状、何もしていない彼は、メタルの海を漂うメタルダイバーの様子を伺っていた。
 顔の防護バイザーを失ったそのダイバーは、力なく四肢を海に投げ出していた。その両手で海水を掻き、或いは足で海水を蹴り、泳ごうと言う気配は一切見出されない。
 それどころか、その両手の指先や両足の爪先付近が光を放ち、粒子となって海水へと解け出していた。その光の粒子は海流に乗って流れ、まるで彼から放たれてゆく光の糸のような印象を与える。
 崩壊してしまったバイザーとそれを収めていたフルフェイスヘルメットの縁から、彼の顔を垣間見る事も可能だった。
 彼は固く瞼を伏せている。口許も固く結ばれていた。ヘルメットの縁を乗り越えて伝わってくる微かな潮流に、前髪が揺れた。髪に肌をくすぐられても、何の反応も見せようとしない。
 海水に顔を晒して漂うその姿に、義体は正に溺死者を連想する。窒息に苦悶し危機に抵抗する時期はとうに過ぎ去り、死を受け容れ屈服した状況そのものに思えた。
 ――そもそも、何故彼はこんな事をしでかしたのだ?これでは、自殺ではないか。
 その疑問自体は、AIの中から一切潰えていない。
 彼は、「溺れた」メタルダイバーがこの状況からの復活する手法を導き出しただけである。それすら100%の確率を叩き出してはいない。
 傍らでは、このダイバーと特別な繋がりを持つとおぼしき少女が懸命に呼び掛け、彼を現世に繋ぎ止めようとしている。しかしその努力が実るかは、賭けでしかない。その賭率もさして高くはないだろう。
 そのAIは、ちらりと思考を電脳へと向ける。自らの視界に立ち上がっているメニュー画面を意識した。
 彼の電脳にも電通プログラムは立ち上がっている。それは彼独自の回線であり、この室内モニタを通さずに非公開で通信する事が可能だった。
 メニューには人名が羅列されている。この部屋を訪れる人間は数少ないために、そこに表記されている名前は多くはない。
 彼は、そこに掲載されている1名にフォーカスを合わせていた。後はそのまま選択を実行すれば、電通プログラムが走るはずだった。
 しかし、彼はそれ以上の行動を起こさない。電通を躊躇っていた。
 選択状態にある人物の名は、蒼井ソウタと言う。
 彼はその統括部長代理へと電通し、特定箇所のメタルの固定を依頼するかどうか迷っていた。
 ――波留の意識をメタルに流し去る前に付近のメタルを固定すれば、少なくとも意識の散逸は免れる。それにより、流れた意識を再構成して復元する事も出来るかもしれない。
 彼が漂うメタル内アドレスは、この観測ログにより明確に提示可能である。後は電理研に許可を取り、メタルの管理部にでも実行して貰えばいい話だった。ブレインダウンした利用者の救助のために、時折なされる措置である。それ程特殊な事とは言えない。
 以上の事情は、この義体にも理解出来ていた。人名救助のためには、メタルの固定は申請して損はないはずだった。
 しかし、彼はそれを躊躇っている。
 AIに過ぎない自分が、電理研にそこまで介入していいものか、迷っていた。誰の指示も受けていないのに、人間の了解なく行動に移していいものか――。
 ――あなたはこの部屋にしがみ付いているがいいわ。
 そうやって、御自分の立場を存分に満喫すればいいんじゃなくて?
 彼の脳裏に、あの深海の魔女の言葉が走る。そしてそれは、侮蔑の表情を伴って再生されてきた。
 瞬間、彼の奥歯が音を立てた。無意識に、奥歯を噛み締めていた。
 それで――本当にいいのか?
 脳裏に自問が浮かび上がる。そう問い掛け続けてゆくと、彼の内部で苛立ちが増幅されてゆく。
 私はAIだから、どうしようもないだろう。
 ――どうしようもないと、諦めていいのか?実際に先程、私は「確証がない」はずの案を彼女に提示したではないか?
 それは、久島永一朗の記憶を無意識に辿ったからだろう。人間が有する「閃き」故の結論ではない。「閃き」を持たないAIに何が出来ると言うのだ。我々は人間とは違うのだ――。
 奥歯を噛み締め続けていると、顎が疲れる。何故か息苦しい――義体である自分は呼吸の必要がないと言うのに。
 その時だった。
「――波留さん!?」
 不意にミナモの声の調子が変わっていた。今まで懸命に呼び掛け続けていた彼女だったが、その叫びが唐突に驚いた調子に変化していた。そしてそのまま、呼び掛けが中断されている。
 ミナモに視線をやると、彼女はモニタを見ていた。それに釣られ、久島の義体もそこを注視する。
 そして彼の瞳は見開かれた。噛み締めていた歯を解放し、息を吸い込んだ。しかし、それを吐き出せない。そのまま硬直し続けていた。
 彼の眼前には、現実に起こるとは思えなかった事象が現れている。
 モニタに投影されているメタルダイバーの右腕が、ゆっくりと持ち上がっていた。その手首から先は既にアバターとしての概念を失い、光の粒子が散漫に放出されているばかりだった。
 そこから更にアバターの破片が剥がれ落ちてゆく。持ち上がった腕から落ちるその光の破片は、露わになっている彼の顔へと降り注いでいた。まるで顔の上で弾けるように光が跳ね、吸収されるように消失してゆく。
 顔に降り注ぐ光に刺激されたように、彼の瞼が震えた。そして、ゆっくりと開いてゆく。睫が動き、上がっていった。そこに隠されていた黒い瞳が明らかとなる。
 しかし意識は混濁しているようで、瞳の色はぼんやりとしている様子だった。
「――波留さん!」
 少女の呼び掛けが再開される。しかしそれは、明確な目的のための行動だった。闇雲に呼び掛ける時期は過ぎ去っていた。確固たる意志の元、彼女は叫ぶ。
「戻ってきて!」
 まるで携帯端末を抱き締めるように縮こまり、ミナモは今までとは全く別の言葉を叫んでいた。
 その声を認めたのか、ダイバーの瞳の焦点が定まってゆく。前髪を海流になびかせつつ、開いた瞳を瞬かせる事もない。
 そして、彼の唇が動いた。何らかの言葉を紡いでいた。海水に浸かった状態で音声が伝播する訳もないが、彼は口の形を正確に作り、その言葉を表現した。
「…繋がった」
 ――AIには、その言葉が、まるで直に耳に届いた心地がする。電通形式でもなく、或いはモニタを通した音声でもなく、もっと間近から発せられたような――。
 ――自らの「心」に、直に飛び込んできたような感覚だった。
「――波留!」
 衝動的に、久島の義体はその名を叫んだ。
 瞬間、モニタが凄まじい光を発する。それは、深海のプライベートルームすらを眩しい白色に染め上げる程の光量だった。

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