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やがて、義体の顎から手が離れる。瞼をゆっくりと上げる。顔から手を外し、彼はミナモの方を向いた。 「――蒼井ミナモ。私から、訊いてもいいか?」 「え?」 そのAIは、問う前にわざわざ断りを入れてきた。その事実にミナモはきょとんとするが、断る理由はない。すぐに頷き、先を促した。 義体は紫色の義眼をミナモに向けている。そこに含まれる印象はいつものように冷静だった。しかしミナモは、それ以外に彼の「真剣さ」を読み取ったような気がした。 「溺れていた波留と出会ったダイビングは、何時行ったのだ?」 果たして投げ掛けられてきたその問いに、ミナモは両目を瞬かせた。これって、真顔で突き詰められるような事なのだろうか?――彼女当人としてはそう思ってしまう出来事なのだ。 しかし、久島の義体は表情なくミナモを見ている。彼女の答えを待っている様子だった。 「…えっとー…」 ミナモは視線を上向かせた。頬に人差し指を押し当て、考えてみる。しかし、そこまで記憶を辿らずとも思い当たる出来事だった。体験してまだ日が浅いのだから。 「――…この前です。今月に入ってからです」 結局ミナモはそう答えを導き出していた。しかし、具体的な日付までは出てこない。 曜日から逆算しようにも、最近の自分は実習が多い。学校カレンダーに縛られた生活をなかなか送れていないため、曜日感覚が曖昧なままである。 手帳を捲れば明確な日付が判るはずだが、そこまでする事なのだろうかと言う疑念が先に来ていた。結果、彼に更に問われたら改めて調べよう――彼女の中では結論付けていた。 「それは、波留が人工島に居なかった時期か?」 そしてミナモに義体が重ねて来た問いは、それだった。それに、ミナモはまたきょとんとする。どういう区切りのつけ方なんだろうと思った。 とは言え、義体の問いは外してはいない。「今月に入ってから」と自分は言ったのだ。そして波留が人工島を離れて何処かに消え、また戻ってくるまでに、結構な日数を費やしている。数字に弱い私のために、こういう訊き方をしてくれてるのかなあ?――ミナモはそう解釈した。 「はい」 「ふむ…」 ミナモの返事を受け、再び義体は顎に手を当てた。思考に浸り始める。どうやら彼なりに、ミナモから必要な情報は取得したらしい。 「――…だから波留は、そう言い遺したのか」 やがてもたらされたそれは、独り言だった。聴き付けたミナモは首を傾げる。そんな少女に、続いて声が掛けられる。 「蒼井ミナモ」 「はい?」 「これから君は、携帯端末を用いて電通回線を開き、波留真理の名を呼び続けろ」 「…え?」 全く、唐突な指示だった。それを出されたミナモには訳が判らない。 久島の義体は口許に右手を当てたまま、ミナモに視線を寄越している。少女からは口許を隠したまま、言葉を続けた。 「君は波留に呼び掛け続けるんだ。そうやって彼の意識を繋ぎ止めろ。自意識が完全にメタルに流れ込まないよう、彼の意識に働き掛けるんだ」 それが、この義体が導き出した結論らしい。ミナモは音声としてそれを感じ取り、数秒掛けてその内容を脳に刻み込んでいた。 そして更に数秒を費やし、内容を精査する。すると、良く判らなくなった。それをそのまま義体へと質問してみる事とする。 「…え、波留さん、メタルの水を飲んじゃったんじゃないんですか?そんな事したからこんな危ない事になってるって」 「意識が完全にメタルに解けてしまわなければ、回復の可能性は残る。おそらく彼はそれに賭け、敢えてメタルに自意識を流したのだ」 「――本当ですか!?」 口許を押さえたままの義体からの答えを訊いたミナモの表情が一変する。驚きと喜びが同居した顔となった。勢い込み、義体へと一歩踏み出す。彼に触れる事が出来るような位置まで入り込み、じっと見上げた。 急速に接近してきた少女の顔に、義体は思わずその手を口許から外してしまう。口許が露わになった事で、戸惑いの印象が義体に漂う。狼狽していたとの表現が適当かもしれない。 「波留を救う可能性があるかもしれないだけだ。確証はない」 答えつつも、思わず義体の腰が引ける。若干、弁解めいた口調だった。自分はAIだと言うのに「確証がない」意見を提唱している現実が、更に彼を戸惑わせていた。 「でも、AIさんは私にそれをしなさいって…そう勧めるんですよね!?」 AIの動揺をよそに、ミナモの勢いは全く潰えない。義体に迫り、彼を見上げ、大きな瞳で賢明に訴え掛けて来ていた。 「…ああ」 義体は短く返答しつつ、一歩後ずさっていた。すっかり少女の勢いに押されてしまっている。 「判りました!」 ミナモは元気に頷いていた。ようやく義体から視線を外し、ポケットに手を突っ込んだ。そこに収めたはずの携帯端末を取り出そうと試みる。 「――…前にもこんな事、あったっけ…」 その最中、少女は呟いていた。義体に訊かせるともなく、思考を過去へと導いてゆく。 「波留さんが初めて依頼を受けた時、えっちなアバターに抱き着かれた事があったんですよね。その時も私が波留さんを呼んだんだっけ」 「…そうか」 短いスカートの辺りをごそごそとやっているミナモに、義体は静かな声を向ける。彼としては、自分が継承している久島永一朗の記憶に、その事実が残っていたような気がする。だからこそ、この手段が結論として導き出されたのかもしれない。 仮に1回実行して見事成功に至った行為ならば、それは「確証」となり得る。自分の判断は正しいのかもしれないと考え直した。 彼の眼前のミナモは携帯端末のサルベージに成功していた。端末表面にキーパッドを表示させ、電通プログラムを起動させてゆく。 未電脳化者たる彼女は流石にその端末を使いこなしてるようで、操作は手慣れている。その様子を眺めつつ、義体は口を開いた。 「ならば、彼もその経験を思い出したのかもな。だから君に託したのだ。自らの意識のリンクを、君と言う存在に」 その言葉に刺激されたらしい。ミナモは顔を上げた。何処か困ったような顔で、言う。 「そんな…私メタルの事なんか全然判ってないのに」 「君は波留のバディだろう?」 少女の戸惑いを前に、義体はそう断じた。その声に、ミナモの思考は立ち止まる。壮年男性の義体をまじまじと見上げた。手元の携帯端末がコール音を続けている状況から意識が逸れた。 「胸を張れ。君にはその資格があり、彼のダイブを見届ける権利がある」 義体の声には、何故だか優しげな響きがあった。表情に変化は見られないと言うのに、微笑みの印象すら湛えている。それをミナモも感じ取り、彼女の顔が綻んだ。 そこに、義体の声色が僅かに変化した。彼は冷静に、付け加えてきた。 「そして…君には彼のダイブを安全な方向へと導く義務がある」 その言葉に、思わずミナモの表情が引き締まる。権利には必ず、義務と責任が付き纏うものだ。それを彼女は学校では勿論、それ以外の場所の大人達からも教えられて来ていた。 それを、この義体は改めて突き付けてくる。厳しい現実をミナモに知らしめようとしていた。 しかしミナモは、悪い気はしていない。むしろ、認めて貰った気がした。15歳と言う曖昧な年齢である自分が大人達と肩を並べる事が許されるならば、それは嬉しい事なのだろう――。 「蒼井ミナモ。君は君の役目を果たせ。それが、君が選んだ立場だ」 「――はい!」 ミナモが決意を込めた表情で頷いたその時、コール音が途絶えていた。彼女ははっとして、携帯端末の画面を見る。そこには電通プログラムが走ったままで、相手側の登録画像が表示されていた。黒髪の青年の二次元顔写真が、そこにある。 電通プログラムは正常作動し、相手方へと電通が通る。それは、相手の存在がまだメタル内でプログラムに認識可能な状態にあるとの充分な証明となっていた。 その状態は、波留をモニタリングしている画像にも現れる。それに気付いた久島の義体は目を細めた。 しかし、メタルに疎いミナモには、そんな事は判らない。波留と「繋がった」事実を認めただけだった。 この回線が繋がっているのなら、きっと大丈夫だ。ともかく自分のやるべき事をやるだけだ――その決意を胸に、端末を顔に押し付ける。 そして彼女は懸命にその名を声に出し、連呼し始めた。 |