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その声が耳に届いたミナモは、反射的に顔を上げる。――義体の長々とした説明は、ようやく結論に辿り着いたのだ。それを彼女も把握していた。 「とは言え、波留自ら構築したはずの防壁だ。並大抵のダイバーでは破れんだろう。それこそ、彼が構築したクラックプログラムでも発動させなければな」 ミナモの前に提示される説明は、相変わらず淡々とした声で続いている。事態の深刻さを語っているはずだが、そのAIの語り口は一切変化を見せない。今までの状況説明と同様の状態だった。 「彼はそれを実行し、結果を我々の前に提示してみせた。これは、最強の盾に最強の矛を用いればどちらが勝つかとの古今東西掲げられてきた命題への、彼なりの解答と言えるのだろうか」 台詞の最後には、彼は自問していた。それは、何処か悠長な響きがある台詞だった。 ミナモは焦り、眼前のモニタを見た。そこでは波留のアバターが深海を漂っている。彼は四肢を海に投げ出し、潮流に身を任せていた。彼自身の意志で動く様子を全く見せない。 割れ砕けた頭部バイザーが光の粒子となって海に解けてゆく。そればかりか、両手の指先も細かな光を発し始めていた。その光が細い糸のように、微かに海に広がっている。 蒼基調だったはずのメタルダイブスーツはその色を失い、赤黒く変色していた。それはまるで血の色のようだとミナモは思い、そしてその自らの認識に恐れおののいた。 がばりと少女は振り向く。長髪を翻し、隣の義体を身体毎見た。その義体は無表情のままで、モニタを注視している。同じ投影映像を見ているはずなのに、ミナモとは全く捉え方が違う様子だった。 その態度に、ミナモは一瞬怯む。動揺している自分の方がおかしいのかと感じた。しかし、今までの彼からの説明を思い起こせば、今の状況が波留にとって危険でないはずがない。なら、やけに暗い瞳でモニタを見上げているAIさんが冷静過ぎるんだ――。 「――何で波留さん、そんな事したんですか!?」 少女の鋭い声が深海の一室に響き渡った。そしてその声は速やかに沈黙へと解けてゆく。 その間を置き、久島の義体はちらりとミナモを見た。それは、この長い語りが開始されてから初めての事だった。彼は眼球のみを動かし、ミナモに視線を寄越している。一旦、口を結ぶ。 「――さあな」 沈黙の後、短い言葉が義体の口許から発せられ、すぐに途切れる。 彼はゆっくりと瞼を伏せた。腰のポケットに両手を納める立ち姿を保ったまま、しばし沈黙した。そして再び瞼を上げた時、彼はもうミナモを見ていなかった。身体の向きと同様に、正面のモニタへと視線を戻している。 「…本当に人間とは不可解だ。これは、電脳自殺に類する行為だ。それも、このように面倒な手法を取ってまで実行するとは…全くもって理解し難い」 眉を寄せ両目を細め、久島の義体はそう述懐した。AIとしての思考を持つ彼に、今回の波留の行動を理解出来ないらしい。 合理的な説明をつける事が出来ないが故、彼はミナモにも説明が不可能である様子だった。それこそ「矛盾」の故事をメタルの海で実行してみせたのか――そう勘繰りたくなる事態なのだろう。 説明を放棄した義体を見つめるミナモの瞳は見開かれ、不安定に揺れた。この彼にも判らない事があるのだと認識を新たにする。 それはミナモにとって、絶望だった。 理解不能な波留の行動を前にした彼女は、自分に判らない事を知りたくて縋るように彼に訊いたのだ。何でも知っているはずの、このAIに。 その彼も匙を投げた。こうなると、どうしようもない。 眼前に漂う波留が致命的な事態を迎えている事は、ミナモにも想像が付く。そしてそれを引き起こしたのは彼自身だった。一体どうしてそんな事をしたのだろう。 メタルの海の現状が、ミナモの眼前に提示されている。 それは、まるで――。 ミナモは、つい先日体験したはずの、その出来事に思い至っていた。そしてそれに、彼女は軽く息を吸う。あの時も、何故あんな事になったのか、良く判らなかった。でも確かに、彼は海中に漂ってきていて――。 「――波留さん…」 ミナモの口から漏れる声は震えている。そしてまた息を吸い込んだ。 「…それって…あの時みたいだよ!」 続く声は、鋭い叫びと化していた。涙声ではない。泣きそうではあるのだが、彼女はその自分の感情を押し留めていた。 「――…あの時?」 不意に、隣から声がする。ミナモは顔を上げる。すると、傍らの義体が自分の方を見ていた。 この時点で初めて、彼女は自身の心中の声を、そのまま現実に具現化してしまっていた事に気付いた。そう思うと、途端に頬に取が射してゆく。 義体のその台詞は、ミナモの言葉尻を捕まえている。どうやら彼は、少女の言葉に興味を惹かれたらしい。その瞳からは暗い印象は消え去っている。 目の前の現実を認識し、ミナモは戸惑った。思わず心中の声をそのまま出してしまった自分を恥ずかしく思う一方、その声にこのAIが興味を示している事実が眼前にある。 AIさんも、一体どうしてしまったんだろう――そう疑問に思うが、とにかく問われた事には答える事にした。 「えっと…この前ダイビングした時に、私、波留さんに会ったんです」 彼女は、自身の記憶をたどたどしくも言語化しようと試みていた。それに、義体が訝しげな視線を送る。彼女の発言の意味を捉えかねている様子だった。 「…いや、本当かは判らないんですけど。イルカさんが出てきて私を海中に誘ってきて」 ミナモは義体の視線を目の当たりにし、しどろもどろに言葉を重ねる。この説明は、本当に要領を得ていないとの自覚はある。AIさんみたいに流暢に説明出来たらどんなにいいかと思った。 「その、イルカさんが私を連れて行った辺りに、波留さんが漂って来たんです」 もどかしいながらも、ミナモは身振り手振りを交えて懸命に自らの体験を伝えようとしていた。そんな少女に、久島の義体は伺うような視線で見ている。 「…漂って来た――とは?」 顎に手を当て、考え込むような姿勢で義体はそう問い掛けてきた。要領を得ないミナモの説明に助け舟を出そうとしている様子だった。相手の台詞を質問系として返す会話は、彼の対話プログラムの根幹とも言える。それこそ、原初のエライザプログラムから継承されている設計思想だった。 その言動にミナモは自然に促される。心中に浮かんだ言葉を吐き出した。 「波留さん、溺れてたみたいで」 「…溺れていた」 伏し目がちな義体はまた、ミナモの言葉を繰り返す。まるで、その言葉を口の中で噛み締めるような印象がある。 「波留さん、全然動かなくて。私のエアを分けてあげたら、意識を取り戻したんです。そして、イルカさんと何処かに泳いで行っちゃいました」 義体は無言だった。じっと考え込んでいる。その姿を見ると、ミナモは何だか自分の説明が馬鹿馬鹿しいものに思えてくる。そんなに真剣に訊いて貰うようなものだっけ――そう感じ始め、自然に顔に苦笑が浮かぶ。 「――あ、いや。多分窒素酔いってものだと思うんですけどね。アユムさんも以前そう言ってたし」 「…以前、とは?」 義体の口からそんな問い掛けが漏れた。ミナモの台詞から、また対話プログラムが発動したらしい。 その態度に、ミナモは口籠った。彼女にとって、予想外の方向から突っ込みを喰らったからだった。何せ今まで懸命に説明してきた事件とはまた別の話題なのだ。 しかし無言で視線を投げ掛けてくる義体を目の当たりにしていると、何かを答えなくてはならないと言う心境に陥る。彼は明らかに私の答えを待っているのだから――。 「私、前にもダイビング中に波留さんの姿を見た事あるんです」 ミナモはそう告白した。両手を膝の前で合わせ、指を絡ませる。どう理由付けをしても現実に起こった事とは思えない出来事なのだ。そう思うと、真面目に説明している自分が恥ずかしいような気がした。 「その時の波留さんは普通に泳いでて、私に合図してくれただけだったんですけど…」 ミナモはそう付け加えた。それは、初ダイビングでの出来事だった。 その時彼女はフジワラ兄弟の手引きで人工島の沖合に潜り、初めて間近に見た珊瑚や様々な魚達に見とれていたら、前方に人影を発見したのだ。その人物とは青色のダイビングスーツを纏った青年で、後ろ髪を軽く結び海流に漂わせていた。 そしてミナモは、その彼が若かりし頃の波留にそっくりだと思った。むしろ、当人だと直感した。 もっともその出来事が起こったのは6月であり、その頃の波留は白髪の老人だった。確かに当時の彼でもメタルでは若者の姿を取ってはいたが、ミナモがダイブしていたのはメタルの海ではなくリアルの海だった。そう考えれば、青年の波留が存在する訳がない。 理論ではそれが正しいと、ミナモも判っている。しかし彼女には、どうしてもその「彼」は波留当人だと思えてならなかった。 陸に揚がってから彼女は、アユムに「海中で人影を見た」と曖昧に濁して伝えてみた。そしたら「窒素酔いだろ」と教えてくれた。どうやらそういう事例は有り触れているらしい。 ミナモはそれで納得したつもりだった。 それでも、心の何処かでは、「あれは波留さんだった」と思っていたのだろう。この前の――そして2回目の邂逅により、その思いは強くなっていた。 一方、久島の義体は顎に手を当てたまま沈黙を続けている。瞼を伏せ、自らの思考に没頭している様子だった。 語り終わったミナモは、そんな彼を見つめている。胸の前で拳を作り、若干前のめりになっていた。とは言え、自分の言葉をそんなに真剣に考えてくれなくても――と、ついついそう考えてしまう。 |