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――ミナモさん。 唐突に呼び掛けられたその少女は、咄嗟に反応出来なかった。モニタ越しのメタルダイバーは顔を上げ、自分の方を向いている。 促すように久島の義体がミナモを見やる。それに気付いた彼女は、慌てて何かを言い掛けた。 しかし、自分がモニタに向かって何かを言っても相手には伝わらない事を思い出す。波留がモニタに音声を乗せて通話が可能なのは、彼が電脳化しているからだ。同様に久島の義体の思考も音声化されてミナモに届くのも、電脳化の賜物だった。 自分は未電脳化者であり、携帯端末を介さなければメタル内の波留とは一切通話出来ない。その原則を胸に、ミナモは再び携帯端末を耳に当てた。 ――…波留さん? 伺うようにその名を呼ぶ。 ――ああ良かった。まだ僕と電通して下さいますか。 その声がミナモの耳に届いた時、モニタに映っている彼は優しげに微笑んでいた。 ――当たり前です。 波留の言い方に、ミナモはやけに感情を刺激された。悪いように取れば、確かに先程の彼は自分を邪険に扱ったようなものだ。彼は遠回しに「邪魔だから電通するな」と言ったようなものなのだから。 それを思えば、ミナモは気分を害していても特にバチは当たらないだろう。だが、だからと言って、それを見透かされたような言葉を受けるのは少々厭だった。そもそも自分は波留に対して怒りめいたものは感じていないのだから。 仮に何かを感じているとすれば、それは戸惑いだろう。しかしミナモはその考えを飲み込んだ。それでも若干口を尖らせつつ、言う。 ――私は波留さんのバディなんですよ? ――そう仰って下さいますか。 少女の台詞には拗ねたような響きがあった。それを捉えたのか、波留の微笑みが深まってゆく。 ――あなたは僕に閃きを与えて下さいます。あなたは僕の帰る場所なのです。 ――…え? 波留が発しているのは、とても優しい声だ。しかしミナモはそれに怪訝そうな声を上げた。確かに自分をそう評価してくれるのは、嬉しい話だ。しかし、何を言っているのだろう――今の彼女には、そんな疑問の方が先に来た。 ――それを今頃、思い出しました。とても大切な事だったと言うのに、何故今まで忘れていたのでしょう。 それは、まるで自問だった。果たしてミナモに聴かせているのかも判然としない。 ――ミナモさん。 再び名前を呼ばれた。ミナモはそれを思い、まじまじとモニタを見つめる。そこに映っている波留の表情は、優しかった。それも、何かを達観したような印象すら保持している。 ――願わくばあなたは僕の…―― そこで一旦台詞が途切れた。波留は口を結び、言葉を切っていた。彼の中に何らかの躊躇いがあったのか。ミナモには読み取れない。 ――帰る場所で在り続けて下さい。 波留はそう告げてきた。そして軽い目礼をミナモに見せる。 不意に彼は顔を上げた。モニタから視線を外す。メタルの海を軽く蹴り、視点から距離を取る。しかし、そう遠くは離れていない。彼の全身がフレーム内に収まる程度の移動だった。 波留はゆっくりと両手を挙げてゆく。その手は胸の前に来て、更に顔へと至った。ヘルメットのバイザーに、両手の掌を押し当てる。 彼はその指を折り曲げた。まるでバイザーに爪を立てるように押し当てている。しかしその手はダイブスーツと一体化しているグローブに覆われ保護されている。 ――波留さん? 一体何をしているのだろう。ミナモはそんな疑問を頭に浮かべていた。確かに自分にはメタルダイブの事は良く判っていない。不思議な行為に見えても通常動作なのかもしれない。いつもならば、そう流しただろう。 しかし先程の会話を合わせて考えると、疑念が晴れない。 そんな彼女に呼び掛けられても波留は反応しない。両手の指をゆっくりとバイザーに押し当てているのみだった。その指には力が込められているようで、固まった状態で静止している。 不意に、深海のプライベートルームに、耳障りな音が微かに届いた。何かがひび割れたような音だった。それを聞きつけたミナモは辺りを見回す。が、変調は見当たらない。 そしてミナモは、隣で身じろぎする音を聴いた。ふと見ると、久島の義体がモニタを見上げている。しかし先程と違い、一歩を踏み出していた。 そしてその表情はいつもと異なり、驚愕の色を含んでいた。感情プログラムを持たない彼が僅かにでもそのような彩りを見せている。その事実に、ミナモは首を傾げた。そして彼に釣られて、モニタへと視線をやる。 波留が触れているバイザーが淡い光を発していた。ぼんやりとした白い光が彼の指に当たり、メタルの海に光の陰影での複雑な紋様を刻み込んでゆく。 「――何をしている、波留真理」 ミナモの隣からそんな声がした。自分に言われたのかと思い、彼女は改めて久島の横顔を見上げた。しかし彼はモニタを直視したままだった。傍らの少女の存在など目もくれない。 相変わらず抑揚に乏しい久島の声は、しかし何処か緊迫感が込められている。 彼は唇を動かして発言していた。だからミナモにも聞き取れていた。しかし、電通であっても今回のダイブにおいては室内のモニタの投影対象とされている。今までの波留とこのAIの電通会話も、ミナモには筒抜けだった。 それが、敢えて今回、彼は実際に声を出している。その事からも、ミナモは事態の奇妙さを感じていた。 ぴしりと、また何かひび割れるような音がミナモの耳に届く。澄んでいるが耳障りな音質だと、彼女は思う。 「…よせ、止めろ」 平静を保っているようでいて、何かを押し殺しているような印象の声が、またミナモに聞こえてきた。それを発した彼の顔は強ばっている。 ――AIさんは、何かを問題にしているらしい。彼女にもそう推測出来るようになってきた。だから彼女もモニタを注視する。波留の様子を細かく観察しようとした。 波留は相変わらず両手の指を立ててバイザーに押し当てている。その箇所が発光し、彼を照らし出していた。 あんな至近距離で光を受けて、眩しくないのだろうかと単純に彼女は思ってしまう。そこにまた、ひび割れるような音がした。今度は多少音量を増している。 小さな泡がいくつか、波留の顔の周りに浮き上がる。光が揺らぎ、陰が射した。 そしてミナモは、何が起こっているのかを目の当たりにした。 波留のバイザーに細かなひび割れが走っている。その付近を覆うように細かな泡がまとわりついていた。 そして波留はそれに怯む様子もない。押し当てる指に力を込めたままだった。まるでそれは、彼自身がバイザーを押し割ろうとしているかのようで――。 「――波留さん!?」 それを悟ったミナモは、甲高い声で彼の名を叫んだ。 その瞬間、ガラスが砕けるような鋭い音が響き渡る。 ゆっくりと波留の両腕が顔から離れてゆく。ふわりと浮かぶように上がり、そして身体の側面へと向かい、揺らいだ。 波留の顔面付近から、きらきらと輝く光の断片がメタルの海に漂っていく。それは破損したバイザーの破片であり、アバターとしてのコントロールを失ったそれらがメタルの海に解けてゆく様だった。 「――波留真理!」 久島の義体が声を荒げた。彼らの眼前のモニタで、そのメタルダイバーは四肢から力が抜け、そこに漂っているのみだった。 |