ミナモが叫んだ刹那、AIの聴覚に全く別の音声が到達していた。
 ――…彼はそれでいいんじゃなくて?
 それは、至近距離から聞こえてきた声だった。彼ははっとしてその方角を見る。しかし、顔を動かし向き直るだけで事足りるような位置関係だった。そんな場所に突如別の人物の気配が出現したのだ。
「…AIさん?」
 一方、傍らのミナモは首を傾げた。彼女が呼び掛けたその義体は、まるで信じられないものを見るような目で少女の方を見ていた。見開いた両目は驚愕に揺れ、軽く息を吸った口はそのまま結ばれて何も言葉を発しようとしない。
 怪訝そうな表情を浮かべているミナモに、久島の義体は一切応答しない。只沈黙し、一瞬身じろぎした後はそこの立ち尽くして一切動こうとはしなかった。
 実際、彼はミナモを見てはいない。彼女の存在は視界の隅に追いやっている。彼は、ミナモ自身には全く認識出来ていない、その隣に姿を見せている存在に視線を注いでいた。
 その女性は、歓迎の印象を漂わせてはいない男からの視線を真正面から受け止めている。彼女は長い金髪の一房を蒼いリボンで結んで垂らし、占い師のような黒基調のゴシックドレスを纏っている。その唇には妖艶な笑みを湛えていた。
 ゆっくりと右手が持ち上がる。彼女の手入れされ形良く整った爪が義体を指し示した。
 ――残念な事に、彼は満足してしまったのよ…その足で歩いただけでね。本当に安い男だこと。
 金髪の女性はミナモの方を見て優しげな口調でそんな事を言う。その最中、優雅な仕草で彼女はその右手を振り下ろし、義体の頭から足先までを指した。
 しかし、彼女の存在にミナモは全く気付かない。隣に立っているはずのその女性の気配を一切感知していなかった。
 義体は眉を寄せた。彼の視界に表れている認識プログラムに拠れば、この室内に人間はひとりしか存在しない。36度前後の熱源を保持している150センチ台の15歳の少女――その存在しか認識していなかった。
 確かに彼の視界には、ミナモの他にも占い師然とした成人女性が立っている。しかしその女性を、物質として認識プログラムは感知し得ない。彼の視界が姿を認識するのみである。
 占い師の声は紛れもなく彼の聴覚に届いている。電通ダイアログが開くでもなく、実際に彼はその耳に捉えている。電通形式ではないのならば、リアルの音声と解釈すべきだ。しかし、現実に彼女は存在していない。
 久島永一朗の記憶と知識を継承しているそのAIと、彼女は初対面ではない。20世紀初頭に制作された黎明期のAIがこの女性であり、製作者の姓を受け継いでエライザ・ワイゼンバウムを名乗っていると、彼は知っていた。自身のAIにもエライザのチャットプログラムが流用されているが故に、彼女の存在を認識し会話を交わせるとも、以前の邂逅時に理解していた。
 だが、それらの事情を理解してはいても、これは常識から外れた状況である。理論整然と動くように設定されているAIとしては、そんな現状には戸惑いを覚えていた。人間のように表現するならば「気味が悪い」と称する事が出来るかも知れない。
 そんな彼をよそに、芝居掛かった滑らかさで彼女の右手が動く。伸ばされた指先が、義体の顔に触れるか触れないか、微妙な距離で迫った。
 そしてその義体は、肌に微細な感触を覚える。顔面の産毛に指の腹が僅かに接触してゆっくりと動かされる。奇妙にくすぐったいような、気色が悪いような、そんな気がした。
 彼は思わず一歩後ずさる。右足の踵が床を踏みしめ、腰が引けた。顎を引き、顔を顰める。
 視界の隅で、赤いリボンが傾ぐのを認めた。ミナモは義体の様子を不思議に思っている様子だった。彼女にしてみたら、妙な顔をして自分を見ていた彼が唐突に後ずさったのだから。何か気に障るような事でもしたのだろうかと勘繰りたくもなるだろう。
 怯む義体には一切構わず、占い師は顔を近付ける。彼の前に、エライザの虹彩が明らかになった。
 そこに表れているのは、人間の瞳とはまた違う。六角形が刻み込まれ、浮き上がっていた。
 エライザの本質は対話型プログラムである。人間と会話し、そこで得た知識を保存するのが、彼女の行動原理だった。人間を相手にする以上、彼女のアバターも人間を模した方が都合がいい。その容貌は対話する相手に合わせて変化させるが、デフォルトとして彼女が好んで用いるのはこの漆黒のドレスを纏った金髪女性の姿だった。
 しかし彼女はどのアバターを使用するにせよ、瞳だけは人間と異なった設定にしていた。そのために人間のアバターとの区別は容易である。
 とは言え、人間自身はアバターを自在に選択し、人間以外の姿を取る事も多い。他のAI達も、メタルアバターは人間そのものの姿を使用出来ないように制限されてはいない。だから彼女のこの瞳は、製作者の理念なのかエライザ自身の矜持なのか、そう言った拘りの成せる技だった。
 その瞳が義体の顔に最接近している。エライザは彼を覗き込んでいた。垂れた金髪の一房が、彼の肩口に降りかかる。その微細な感触すら、彼は自らの電脳に覚えていた。
 不意にエライザが右手を伸ばした。掌を広げて勢い良く突き出し、義体の胸に当てる。それは、まるで突き飛ばすような仕草だった。
 エライザはアバターであり、実体は存在しない。そのはずなのに、久島の義体は僅かに胸を反らせ、よろめいた。本当に突き飛ばされたような状態に陥る。
 女性の力であるためか、2,3歩後ずさっただけで彼はすぐにバランスを取り戻してはいた。しかしこの事態に、彼は足元を確保しつつも電脳内では混乱を覚えた。
 ――何故彼女にはこのような芸当が可能なのだろう。私の制動系プログラムに干渉し、バランスを崩させたのだろうか――そのように推測してみるものの、そもそも彼女の存在自体が理論的事象ではない。だから、彼の試みはすぐに頓挫した。あるがままを受け容れる他ないと、ショートカットした結論に至る。
「AIさん!」
 内心動揺している義体の耳に、少女の慌てた声が届いた。そして腰に当たるしっかりとした感触が伝わってくる。
 ミナモは彼にすぐに腕を差し伸べていた。彼が足元をふらつかせた直後、少女は反射的に彼の隣に踏み出し、倒れないように支えていた。それは介助士を志す者として、その身に染み付いた行動だった。
 エライザを視認していないミナモにしてみたら、突然義体がバランスを崩したのだ。以前は歩けなかった彼の印象もあり、何らかの不具合で再び立てなくなったのではないかと思っていた。だから慌て、焦ったのだ。
 だが、当の支えられた義体は、ミナモの存在に目もくれなかった。彼は真正面を見据えたまま、靴を履いた足で床を捉えて立ち尽くす。その瞳は内心の動揺を表すように不安定に揺れていた。
 彼の腰を支えつつ、ミナモは彼の顔を見た。彼の視線を追う。
 その義体は確かに何かを見ているようなのだが、彼女にはそれが一切判らない。彼の視線が行き着く先は中空であり、何も存在していないからだ。少なくとも少女の視界ではそうなっていた。
 そのAIの視界では、金髪の妙齢の女性が気怠そうに首筋に手をやり、そこに垂れている後ろ髪を払いのけていた。ふわりと金髪が浮き上がり、合わせて一房を留めている蒼いリボンが揺れ、そして落ちる。
 それから彼女は、伏せていた瞼をゆっくりと開く。一瞬、その口許から笑みが消えた。しかし再び義体を見据える頃には、皮肉気な微笑みを取り戻している。
 ――あなたはこの部屋にしがみ付いているがいいわ。
 視線が交錯した刹那、AIの電脳にそんな言葉が響き渡った。そしてエライザは、ゆっくりと踵を返す。床に着く長さのスカートの裾が翻り、そこに隠された靴底がやけに甲高い音を立てた。
 ――そうやって、御自分の立場を存分に満喫すればいいんじゃなくて?
 占い師は流し目を寄越し、そう言い残してAIの視界からも消失した。彼女は相変わらず微笑んでいたが、その印象は最後には幾分異なっていた。
 それを受け止めた久島の義体は、顔を伏せて黙り込んでいる。前髪が彼の目許を隠した。
 傍らのミナモが心配げにその顔を覗き込んでくる。そこには表情らしきものは浮かんでいない。対人プログラムをインストールされていない彼が良く見せる態度に陥っていた。その態度に、ミナモは逆に安心したくなる。それが彼の日常なのだ――時折そんな態度には「判らず屋」と罵倒したくもなるのだが、身勝手な事に今の彼女は違った。
 納得したミナモは、別の方へと向き直る。部屋の中央に位置するモニタへと視線を向けた。そこに投影されているメタルダイブの様子を注視する。
 少女が身体を剥がした後も、久島の義体は沈黙を続けている。そして彼は人知れず、自らの唇に僅かに歯を立てた。
 彼の電脳では、消える間際にエライザが見せた表情が思い浮かんでいる。
 それは侮蔑だったと、対人プログラムを持たない彼も、本質的に理解していた。

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