――波留さん、どうかしたんですか?
 そんな彼に、少女の声が届く。気遣うような声色である。その声を聴いた瞬間、自分は映像として見られている事を思い出した。歪めた顔はしっかりとミナモにも見られたのだろう――それに気付かされた彼は、喉の奥から失笑めいた笑みを零した。
 しかし、現実は変化しない。脳裏に浮かんだあまり好ましくない結論は、そのまま横たわっていた。
 とは言え、このまま自分の中に収めていても、やはり何も変わらないのだ。そう思いを変え、彼は電通回線を開いた。
 ――…全ては対処療法に過ぎないのですよ。
 ――え?
 穏やかではあるが、まるで諦めたような響きを持つ波留の声に、ミナモは声を上げた。一体どうしたのだろうと思う。
 ――メタルの深層は海の深層と繋がっている――それが変わらない限り。
 ――どう言う事ですか?
 ミナモにとって、語られる波留の言葉は全く要領を得ない。多分波留さんにとっては判り切った事なんだろうけど、私はメタルに疎いから全然判らない――そんな事を思っていた。
 そんな彼女に、波留は優しく問い掛けてきた。
 ――ミナモさん。メタルの設計理念って、何か御存知ですか?
 ――えーっと、つまりそれって、久島さんの考えだよね…。
 耳に携帯端末を押し当てたまま、ミナモは首を傾げた。視線を中空に向け、考え込む。
 …私は難しい事は判らない。設計理念って…きっと久島さんは難しい顔をしてメタルをプログラムしてきたんだろうけど…それって、私にも理解出来る事なのかなあ――?
 そんな事を考えつつ、ミナモは記憶を辿っていった。隣に立っている久島の姿をしている存在に尋ねたら、答えはすぐに導き出せたのかもしれない。しかし彼女はそこに思い至らなかった。あくまでも自分で考えていた。
 ミナモと久島の縁はそれ程深くはない。ミナモにとって久島は「波留さんのお友達」だった。互いに、波留を介さない縁を築こうとはしていなかった。
 そんな自分が、久島さんを真っ直ぐに見つめた事はあっただろうか?
 それはきっと、あの時だ。あの時、私はダイブした波留さんに頼まれて、久島さんの記憶らしき断片を――。
 ミナモの記憶はそこに行き着いた。すると、すぐに思い浮かんだ概念があった。少女の唇から、自然にその単語が発せられる。
 ――…海。
 ――その通りです。
 ミナモの耳元に押し当てた携帯端末から、波留の穏やかな声が届いた。そのまま彼は説明を加えてゆく。
 ――それがメタルの不文律なのです。メタルが海である以上、例え電理研の管理下に置かれている表層で防壁を構築しようがプールにしてしまおうが、深層からのアクセスは阻めない。
 電理研はブレインダウンの急増を憂い、安全な領域を確保するために深層へのアクセスを断絶させる防壁を構築した事がある。実はそれは久島の独断だったのだが、結果としてあのオニヒトデを呼び寄せる事態となった。
 あのオニヒトデは電理研が構築した防壁を物ともせず喰い尽くし、データを奪い取って消え去ったのだ。結果だけ見たならば、何らかのハッカーが電理研が誇るセキュリティを蹂躙し、目的を達して逃亡した――そう表現されるに相応しい事態だった。
 しかし、久島と波留は、あのオニヒトデはハッカーに拠る存在ではないと理解した。つまり、メタルの深層から浮上してきたのだ。そうやってメタルの深層に存在するとおぼしきデータベースに知識を貯め込もうとし、見事それを達成して行ったのだ。人間が管理するメタルの甚大な被害と引き換えに。
 ミナモはその事件を一切知らない。確かにメタルが数分間落ちて彼女自身もそれに巻き込まれてはいるのだが、一体何が起こったのかは知ろうともしていなかった。
 だから彼女は、波留の今の台詞から類推した考えを、そのまま口に出した。
 ――…つまり、鮫さんが深層から来てるなら、こっちが何をしたって無駄って事になっちゃうんですか?
 ――最悪の可能性を考えるなら、そうなります。
 その台詞の内容にしては、波留の口調はあまりにも穏やかだった。ミナモに言い聞かせているからなのか、それとも打つ手がない以上諦めてしまっているのか――聴かされている少女としては、どちらともつかない。
 しかし、あまり好ましくない事態だとは、彼女なりに理解した。だから拙いながらも、少女は反駁した。
 ――…メタルって、電理研が管理してるんでしょ?だったらそこをいじる事だって出来るんじゃ…。
 ――無理ですよ。
 語るミナモとて、自らの意見に確証はなかった。その言葉に、波留はあっさりと切り返す。そしてその突き放すような台詞の後に、説明を加えてゆく。
 ――そもそも、メタリアル・ネットワークの始祖は海洋シミュレータです。だからこそ「メタルは海」との設計理念を掲げている。以来40年を経た今も、それは変わっていない。メタルの全ては、その理念から始まったからです。
 波留の言葉は相変わらず穏やかだった。普遍的なメタルの概念を噛み砕いてミナモに伝えようとしている。
 ――仮にその設計理念に手を加えては、メタルがメタルでなくなってしまう可能性が生じる。メタルが開発コードの時点からオープンソースの形を取ってはいても、その理念を逸脱した開発者は世界中に独りとして居ない。つまり、そこをいじっては「メタリアル・ネットワーク」として使い物にならなくなるのでしょう。
 設計理念の変更とは、システムの根幹を揺るがす行為である。世界中にコンピューターネットワークが構築され、それが一般化してから半世紀を越えている。それ故にシステムの切り替えは柔軟かつ広範囲に行われなければならない。
 メタリアル・ネットワークが世界の標準ネットワークとして採用されている現在、逆説的にその改変は困難を極めるだろう。そしてメタルを支配する電理研がそれに踏み切るならば、それ自体が大きな異変を象徴する事になるだろう。
 そんな行為を電理研は不用意に行える訳がない。メタルへの不信感はそのまま電理研の信頼の失墜に繋がるからだ。そして「優れたネットワークモデル」である現行メタルを補う新たなネットワークの構築など、どんな技術者に可能と言うのか?
 ――仮に、その開発理念を変更出来るとすれば、それは………。
 波留の声はそこで途切れていた。その後には何も続かない。何かを言い掛けたまま、電通回線を開いたまま沈黙していた。
 しかし、ミナモには彼が何を言おうとしたのか、理解出来ていた。
 波留さんはきっと、「そのひと」の名を出そうとしていたのだ。
 でも――そのひとは、もう居ない。
 ミナモは、考えを進めるうちにその現実に行き着いていた。思わず、気付かぬうちに彼女は、自らの唇を噛み締めている。
 ――申し訳ありません。僕の中で考えを纏めたいので、電通を切らせて貰います。
 沈黙の後、ミナモ達に返ってきたのは、波留のその言葉だった。丁重な言葉で断りを入れつつも「邪魔だから話しかけないでくれ」との意思表示をして来る。
 その態度に、ミナモは何も言えない。閃きを期待されたと言うのに何も与える事が出来なかった――そんな後悔が彼女の中に湧き上がるばかりだった。
 ――…ソウタに連絡取らないんですか?
 ――いえ…電理研にもどうしようもない問題だと思います。
 躊躇いがちにミナモが尋ねると、波留はそう返した。
 そしてそれが最後のやり取りとなった。波留は電通の切断処理に入り、ミナモもそれを受け容れた。その処理は正常終了し、ミナモが耳に押し当てている携帯端末にはトーン音が響くのみとなった。
 ミナモは端末を下ろす。顔を上げた。彼女の正面に投影されている画像では、波留は瞼を伏せていた。彼は宣言通りに何らかの思惟に浸っている様子だった。

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