そのAIの視界には黒色のモノリスの上に鎮座した褐色の木製ケースが存在している。持ち手に添えられた少女の手は何処か所在無げで、受け渡しを待っている様子だった。
 彼はその小さな手を一瞥する。自分を構成する要素として、果たしてバイオリンは存在すべきなのだろうか?――そんな事を思う。
 久島永一朗には、バイオリンを志した少年時代があった。その記憶はこのAIにも引き継がれていた。だから彼は知識としては理解している。
 しかし、彼自身と久島の経験はまるで違う。現状の彼には楽器演奏を補助する制動系プログラムは一切インストールされていないからである。だから、彼は音楽と言う概念を自分に属するものとして捉える事が出来ていなかった。
 不意に、視界の隅から視線を感じる。その気配に僅かに顔を向けると、ミナモが大きな瞳を不安げな色に染めていた。彼の様子を伺っている。
 やがて、彼はぎこちなく机の上の両手を解いた。しかしそれは以前の彼のように、指先の動作が不安定だからではない。それが解消されている今では、そのぎこちなさは明らかに彼の心情の現れだった。
「――…判った」
 開いた口から漏れたのは、簡潔な台詞だった。淡々とした声でそれを述べつつ、彼は両手をモノリスの上に伸ばす。そこに置かれていた流線型のケースに触れ、添えた。
 壮年の男性のしっかりとした手が、ケースの縁を持っている。その光景に、ミナモの瞳が輝く。不安げな色が全て吹き飛び、喜びの印象へと置換されてゆく。
 視界に映る笑顔の少女の様子をよそに、AIは淡々と語ってゆく。
「あくまでもこのバイオリンは、一之瀬カズネの所有物だ。人間に仕える存在である以上、我々は財産を保有し得ない」
 義体表皮に備わる感覚点は生身の人間に及ばないにせよ、彼のAIには木目の凹凸とそこに上塗りされたニスの感触が微かに伝わってくる。彼はそれを感じつつ、言葉を続けた。
「しかし、いずれ彼に返却する日まで、これは私が預っておくとしよう」
 ――あなた、預り物を身に付ける趣味があるの?
 その台詞を告げた瞬間、不意にそんな問い掛けが彼の脳裏によぎった。確か、とある老女から実際に自分に向けられた台詞だったと、彼は記憶している。
 しかし、そこで一体何を問題にされているのか、彼としては良く判らなかった。改めて思い出した今でも、同様である。
 バイオリンケースに添える左手の袖口から、黒色のベルト地が見え隠れしている。彼の義眼はその存在を捉えているが、現状では特に何の感慨も感じていなかった。
「――…本当、AIさんって何でも難しく考え過ぎじゃないかなあ」
 そんな彼の聴覚に、少女の声が届いていた。何処か呆れたような響きを持っている。それに彼は顔を上げる。傍らに立つ蒼井ミナモを見やった。
 ミナモは頬に右手の人差し指を当て、そのまま首を傾げている。唇を尖らせ、眉を寄せていた。どうやら彼の言動に納得が行っていない様子である。
 久島の義体は釈然としていない少女から視線を外した。ケースの木目に視線を落とし、掌でそっと撫でる。
 なめらかな印象を掌から感じ取りつつ、彼は口を開いた。相手が納得していないのなら、補足説明を試みるべきである。対話型プログラムの設定が彼を突き動かしてゆく。
「我々AIの行動は、人間への絶対服従を原則とする。我々はそれに似合う整合性を見出し行動しなければならない」
 彼の声を訊いたミナモは、しばし考える素振りを見せる。その後、ついと顔を突き出し、伺うような目をして問い掛けた。
「つまり…――建前は大切って事?」
 この表現に直面したAIは、思わず目を瞬かせていた。あまりに唐突に導き出された結論に思えたからである。
「…蒼井ミナモ。君は何を思い、そうだと考えるのだ?」
 抑揚のないはずの声に、僅かに怪訝そうな響きが含まれている。自らのAIからは発見出来なかった発想を眼前にした彼は、素直に相手にそれを訊いていた。
 ミナモは右頬に手を当てる。首を傾げ、上目遣いに宙空に視線を投げかけた。彼女なりに、その気持ちを言葉にするように心掛けてゆく。
「だって…AIさんって、自分の行動は絶対に正しいんだって、頑張って理由つけようとしてるみたいだもん。それってつまり、建前探しでしょ?」
 台詞の最後の方ではあっけらかんとした響きになっている。
 そのミナモの台詞が途切れると、久島の義体は瞼を伏せた。彼は対話型プログラムの習性として、提議された論旨を反射的に分析に掛かる。
 そしてそれは程なく終わり、彼は瞼を上げた。紫の義眼をミナモに晒し、口を開く。
「――…君が用いたものは非常に卑近な表現だが、おそらくは我々の行動原理から大きく外れてはいない」
「じゃ、やっぱりそうなんだ」
 AIの結論を受け止めたミナモは腕を組み、納得したようにうんうんと何度も大きく頷いていた。
「そう考えれば、AIさんの考えも、私にも何となく判ります。大人の世界じゃ建前って大切みたいですもんね…」
 ――大人って、本当に大変なんだなあ――少女は心底からそう言わんばかりの態度を垣間見せる。
 しかし当のAIは、ミナモのその結論を果たして肯定していいものなのか。全く判らなかった。大体、AI達の行動が先なのか、それとも行動を起こすための理論が先なのか――その解釈に拠って結論は大きく異なるような気がしてならない。
 確かに彼は自らの行動を言語化して説明しようと努めているが、その行動自体は無意識化のマインドコントロールに基いているはずである。無意識に起こした行動を、後々意識的に言語化しているに過ぎない。それをも「建前探し」と表現されてしまう現実を、果たして座視していいものだろうか?
 しかし、彼は内心に浮かんでいたその問題提議を、口には出さなかった。
 ミナモに対してそこまで食い下がっても意味はないと思ったからである。自分の中で答えを見出せばいいのである。彼女自身は、これ以上突き詰めようとはしていないのだろうから。
 以上の理由から眼前の少女から一旦興味を失った彼は、手元に視線を落とす。そこには褐色のバイオリンケースが収まっていた。掌には滑らかな表面の感触が伝わってきているような気がした。自分の義体は、そこまで微細な感覚点を備えていただろうかと微かに疑問を抱いた。
「――AIさん」
 そこに、不意に声を掛けられた。ちらりと視線を上げると、少女の笑顔がそこにある。
 それはいつもの事ではあるが、今回の笑顔の成分は少々異なっている。いつもの満面の笑顔という奴ではなく、若干照れ臭さを帯びているようだった。
 一見して無遠慮な視線を久島の義体はミナモに寄越している。その視線を受け止めつつ、ミナモは僅かに俯いた。頬を紅潮させ、口元には笑みを浮かべている。正に照れ臭そうな印象だった。
 俯いた視線は、彼女の短いスカートの裾に行き着いている。彼女はそこを両手で掴んだ。所在無げな仕草を見せた後、顔を上げて言う。
「私、AIさんと何時か、合奏してみたいです」
 その台詞に、久島の義体が加える一瞥に別の色が僅かに加わった。怪訝そうな表情に変化している。
 ――この少女は彼女なりの鍛錬を経て、数ヶ月間でリコーダーの演奏技術を上達させている。彼はそれを把握していた。
 無論、現状でもあまりに拙い腕前である。音楽の授業に向けての嗜み程度のレベルを脱してはいない。それでも、当初からはかなりの進歩だと客観視が可能だった。
 それが人間だ。当初は不慣れでも、反復練習により確実に上達してゆく。彼らの生体脳は未知の可能性を有しており、現状に臨機応変に対応してゆくのだ。
 しかし、我々AIは違う。我々はインストールされたプログラム以上の事は出来ない。我々の存在概念とは、限定された技術に特化し、人間に変わってその作業を行うためのものだからだ。
 私には演奏プログラムは一切インストールされていない。だから「指先のリハビリ」と称した所で、まともな演奏など出来る訳がない。そもそも、演奏技術とは単に手先の器用さが求められているだけではないのだ。
 ――そう思っているならば、何故私はこれを受け取っているのだろう。プログラムが実装されていない以上、無意味な事ではないのか?

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