「――あ、そうそう。AIさん」
 不意にミナモはそんな事を言い出して、手にしていたいびつな折り鶴をデスクにそっと置いた。腰の付近から今まで持ち上げて来なかった左手に視線を落とす。
 そして彼女は右手を添え、それを持ち上げた。受け止めたモノリスが、ごとりと音を鳴らした。ソファーに腰を下ろしたままのAIは、その音と視界に入ってきた物体に気を惹かれた。視線を合わせ、義眼が認識する。
 そこに置かれていたものとは、木製のケースだった。独特の流線型の形状であり、ミナモの左手が持ち手を握っている。ニスが塗られきちんと加工されている表面は然程古臭さを感じさせず、比較的新しい品物であると誰もに認識を与えてくるだろう。金属製の留め金からも塗装は剥げていないし錆びた様子も見られない。
 ミナモが携えて来たものとは、バイオリンケースだった。そして重量感ある音からして、中身もそのまま詰まっていると思われた。彼女は満面の笑みを湛えたまま、AIに告げる。
「ホロンさんから預かってきました」
 その名を耳にしたAIは、今更その公的アンドロイドの名称がここでは個人を指示しているのかなどとは問わなかった。この少女との付き合いを思い返せば、その名称を彼女が用いる時には只一人しか指し示さないと理解してきたからである――所詮は「アンドロイド」なのだから「個人」と通称していいものかは、一般常識に照らし合わせた場合は謎である。しかし、彼女の中での常識では、アンドロイドだろうがAIだろうが、人間同様に「個人」なのだ――。
「バイオリンも指先使うでしょ?リハビリにどうかって、ホロンさんに勧められました」
 そのケースの持ち手に手を掛けたまま、ミナモは笑顔でAIに続ける。
 彼女が今日の始業直前に受け取ったメールとは、ホロンからのものだった。曰く「お預けしたいものがございますので、放課後にいらして頂けると幸いです」――そんな代物だった。
 携帯端末のメールブラウザにその文面を表示した時に、ミナモは首を傾げていた。その理由はいくつか存在する。
 ひとつは、彼女はホロンとのメールのやり取りを日常的に行ってはいなかったからである。確かに以前にアドレスの受け渡しはしていたは、それはホロンが「波留真理事務所」の仲間だった頃の話である。メタルの初期化、更にはホロン自身の初期化を経て尚、そのアドレスを記録していてくれたとは思いも拠らなかったのだ。もしかしたらまた、馬鹿ソウタが気を利かせてアドレスを教えたのだろうか?――電理研統括部長代理の妹として、彼の前科を鑑みてそんな勘繰りさえしてしまっていた。
 そしてもうひとつの理由とは、ホロンから渡されなければならないものとは一体何なのか。ミナモには全く想定が付かなかったのである。普通に考えたら、兄や父に定期的に差し入れてきた弁当の空箱を預かってくれた可能性には思い至った。しかし、そんな事はミナモが差し入れを始めた7月下旬以降、今までに一度としてなかった。それがここに来て行われるとは、考え辛い。
 ならば一体何を渡したいのだろう?と言うか、「お預けしたい」って一体――?ミナモは疑問符を頭上に浮かべたまま放課後を迎え、足早に電理研へと向かい、ホロンと待ち合わせたのである。
 そうしたらホロンがこのバイオリンケースを携えており、ミナモにそれを件の説明と共に渡してきた。事情を理解したミナモはホロンからの頼みを快諾し、今に至っていた。そしてこのAIに「これから行ってもいいですか?」とのメールを送り了承を得て、現在の訪問が成り立っている。
「これ、一之瀬さんとの演奏の時に、ホロンさんが譲って貰ったものだそうです」
「…そうなのか」
 ミナモの説明を聞き流しつつも、AIは半ば呆然とした声を上げている。ぼんやりとした瞳を、眼前に置かれたバイオリンケースへと向けた。深い褐色に彩られた木目が彼の義眼に映し出される。ホロンに渡すようなバイオリンなのだから、おそらくは練習用か何かである。常々使用しているあの特別なバイオリンの他にも、不予の事態に備えて別にバイオリンを持ち歩いていてもおかしくはない。それがプロと言う立場である。
 しかし世界レベルの演奏家の所有物だったバイオリンである。滅多に使用されないであろうサブのバイオリンとは言えども一般人が趣味で使用するバイオリンとは違い、半端な品物とは比べ物にならない質を誇っていると思われた。外見から情報を割り出しメタルにて検索を掛けたなら、おそらくはそれなりの結果がヒットするだろう。
 大体が、あのアイランドでの作戦で使用されたバイオリンなのだ。ホロンは確かに途中まではそのバイオリンを弾いていた。途中で一之瀬カズネに演奏音源をスイッチしたにせよ、使用バイオリンにあまりの落差を付けていては、勘のいい聴衆から見抜かれてもおかしくはなかっただろう。そして一之瀬カズネは芸術家としてのプライドがあるはずであり、そんな彼が酷い落差を看過出来る訳もない。
 以上は、あくまでも客観的な推測である。しかし一之瀬カズネがアンドロイドに自ら所有していたバイオリンを1台貸与し、そのまま譲渡してくれた件については、紛れもない事実だった。
 そしてそのバイオリンは、人間に造られたアンドロイドの判断に拠り、更に別のAIへと手渡されようとしている。そのAIはデスクの上に置かれたバイオリンケースを眺めるばかりだった。その瞳からは戸惑いの色は消えつつある。無感動な一瞥を褐色の物体にくれていた。その両手はデスクの上に載せたままで、自らの方へと引き寄せている。バイオリンには一切手を伸ばそうとはしていない。
 そんな彼の様子に、ミナモの笑顔が僅かながら引き攣ってゆく。実を言うとこの少女には、ホロンから頼まれた任務を遂行出来るかどうか、多少自信が持てない部分があった。
 何せ「彼」には前科がある。ミナモはそれを強く記憶していた。その記憶に怯みさえしていた。
 あの時、一之瀬カズネから預かったバイオリンを「彼」に届けに行ったら、「邪魔だな」と冷たく言い放たれて突き返された。その事実をカズネ自身に伝えたら、もう一度渡して下さいとまた受け取り拒否された。こうなるとどちらに渡していいものか、自分が持っていていいものか、全く判らなくなってきた――そうやって、15歳の少女はふたりの老人のわだかまりに見事に巻き込まれた前科が存在するのだ。
 無論、このAIと「彼」は別人である。少なくともミナモの認識はそれだった。しかし、その「久島さん」の記憶を持っているAIさんだって、バイオリンの事を毛嫌いしていてもおかしくはないのかも――ミナモはそんな風にも思えてしまっていたのだ。
 そして今、なかなかバイオリンを引き取ろうとしないAIの態度を見ていると、その考えが当たってしまっているように思えて仕方がなかった。だから彼女は内心、どきどきしている。また自分がバイオリンを持って駆けずり回らないといけないのだろうかと、不安になってくる。

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