そのAIはゆっくりと義体の瞼を上げてゆく。 彼の視界に広がり認識されてゆく風景は、今までのアバタールームと殆ど差異が見られない。重厚な調度が部屋の壁面に並び、天井からは照明が照らしてくる。 しかし両手は膝の上ではなく、何かの上に置かれていた。そこに視線を落とすと、黒いモノリス状のデスクがあった。それは彼の顔を反射し、黒い盤面に壮年の男の顔をうっすらと映している。彼はそれを自らの瞳に、更に映し出していた。 「――…AIさん?」 ふと、隣からもたらされたそんな呼びかけが耳に入る。彼はそれに気付く。そのまま視線を向けると、そこには人工島中学校の制服姿の少女が立っていた。その少女は彼の顔を覗き込むように、傍らに屈み込んでいる。 義体が顔を横に向けた事で、彼らの視線が合う。それに気付き、少女は笑った。 「あ、AIさん。こんにちわ!」 「…ああ。蒼井ミナモ」 満面の笑みを浮かべて挨拶してくる少女に、AIは目礼を寄越す。そんな彼に、ミナモはますます顔を近付けた。 「上がらせて貰ったらAIさん黙り込んでたから…電通とかメタルとか、もういいんですか?」 彼女はそう問いかけてきた。未電脳化者であるこの蒼井ミナモでも、相手の行動によってメタルを利用しているとは類推が可能だった。人工島でのミナモの周辺の人間達はほぼ電脳化している。そんな人々と7ヶ月も付き合ってくれば、電脳を使用しない彼女にも電脳化者達の状態を自然に見極める事が出来ていた。 ミナモに大きな瞳で見つめられつつも、義体は特に反応を見せない。彼は頷いた。態度を変えず、彼女に応対する。 「ああ。この部屋のコンソールが開錠キーを認証し、君の入室を知った時点で、私の用件は終わらせている」 そのAIの弁は事実ではある。しかしその用件とは来訪者との会談であり、その来訪者を放置して一方的にアバタールームからログアウトしてきた顛末には、一切触れていない。 ともかく彼はメタル空間での出来事など、ミナモの前には全く匂わせようとはしない。モノリスの上で両手を組み、少女に顔を向ける。深い紫を湛える義眼で彼女を見て、語り掛ける。 「先約たる君を待たせて、すまなかったな」 「いえいえ、AIさんはお忙しいでしょうからいいんです。来たのは私の都合だし」 対するミナモは苦笑を浮かべた。右手を顔の前でぶんぶんと振ってみせる。するとその手が僅かに風を発生させたか、モノリスの隅に積み上げられていた折り鶴の山ががさりと音を立てて存在を主張した。 先程のメタルアバタールームはこのリアルのプライベートルームを再現していた。それはこのモノリス状のデスクの上の折り鶴も変わりなかった。もっとも、このリアルの折り鶴については何度も練習されたものらしく、折り紙には数えきれない程の折り目がついている。 そしてその折り鶴の山を注視すれば、他にも違う点を発見する事が出来る。折り目が付いた折り鶴の中からひとつが除けられており、それはいびつに折られていた。位置する場所からして、そのひとつをまるで見本としたかのような感がある。 「しかし、君の訪問を了承したのは私だからな。その時点で、私にはホストたる義務が生じてくるものだ」 一方、AIは淡々とした態度を崩さない。彼は中学生の少女に対し、あくまでも一般常識を繰り返してくる。 「そんなに堅苦しく考えなくていいんですってばー」 そんな彼に、ミナモは苦笑を浮かべ、話し掛ける。そして右手を伸ばした。モノリスの上で組まれた壮年男性の両手に重ねる。まるで握手でもするかのように、上から更に握り、軽く振ってみせた。 「AIさんと私はお友達なんですから!」 満面の笑顔を浮かべ、ミナモはそう告げてきた。それにAIは微かに両目を瞬かせた。若干意外そうな表情へと変化させ、自らの両手に重なる少女の小さな手に視線を落とす。手が重なる感触は、彼の手の甲にも伝わってきていた。熱感知が備わっていないはずのその肌に、何故か暖かな印象を覚える。 「――あ」 AIがそんな視線を向けた時には、ミナモは別の事へと興味を惹かれたらしい。彼女はモノリスの上に視線を向け、表情には喜色を湛える。右手をAIの手の甲から剥がし、机上の折り鶴のひとつを摘み上げた。 「うわー…これ、続けてたんですね」 「ああ。リハビリだからな」 小さな鶴を眼前に掲げて感嘆の声を上げる少女に対し、AIの声には何ら感慨は見られない。これもまた彼にとっては当然の事をしているに過ぎないのだろう。 彼の態度をよそに、ミナモは眼前の一羽の鶴と、黒色の盤面上の鶴の山とを交互に見比べている。その瞳はきらきらと輝いていた。まるで子供の――いや、幼児の如きと言い換える事も可能だろうかと、彼女を見やるAIは思った。 「AIさん」 そんな中、彼はふと声を掛けられた。対するミナモは笑顔のままではある。しかしそこにはまた別の印象を含めてきていた。何か別の事を思い付いたような、それがとてもいい事であると認識しているような――。 少女は右手にいびつな鶴を摘んだまま、その手で盤上を指し示す。溜まった折り鶴を示しつつ、言った。 「これで、千羽鶴作りませんか?」 その台詞を聴覚に捉えた瞬間、AIはその内容を認識し損ねた。――彼女は何を言っているのだろう?そんな疑念が彼の電脳に電気パルスとして蔓延する。 千羽鶴とは、日本古来の風習である。曰く、折り紙で鶴を1000羽分折る。それを糸で閉じ束ね、纏める。長寿のシンボルである鶴を1000羽集める事により、病気の治癒や長寿が叶うとの俗説が存在している。そのために入院患者への贈り物として、長年候補に挙げられる品物だ――AIたる彼にもそれだけの知識は一般常識として備わっていた。メタル内から収集可能な情報ではあるし、久島永一朗としての知識にも存在していた。 しかし、その俗説が現状に当て嵌まるのか。彼にはそうとは思えない。その気持ちをそのままに、台詞として形を成す。 「…私は千羽鶴を制作するつもりで、これらの鶴を折り続けた訳ではないぞ。第一、使い回し続けた折り紙だ。見栄えが良くない」 「大丈夫です!」 対するミナモから、満面の笑みが消え去る事はない。胸を張っても居たかもしれない。彼女の中で、その理論は当然のものとして確立していた。 「AIさんは、自分が治りたいって気持ちで鶴を折ってたんです。なら、その気持ちは他の人にも伝わるはずで、効果があるはずです!」 その台詞を耳にした時、そのAIは唖然とした。千羽鶴の民間伝承とは明らかに乖離している論理だからである。確かに「リハビリ」行為として鶴を折っていたのは事実ではあるが、それはあくまでも自身の制動系プログラムの訓練のためである。他人のためではない。更に、その「気持ち」とやらが「他人」に実利をもたらすとの期待を沸かせるとは、一体どう言う論理なのだろう。彼女の中で、何が組み上がっているのだ? 以上のように、AIである彼には全く理解出来ない論理だった。だから、今までの彼とは違い、「そういうものなのか」と漏らして半ば強引に自らを納得させようともしなかった。 「…どんな論理だ」 結果、彼は呆れ気味にそう言い放っていた。そんな彼を前にしても、ミナモは微笑んでいた。 |