その部屋に通された波留は、何気なく視界に入ってきた向こう側の机の上の状況に呆気に取られていた。
 彼は思わずその場に立ち尽くす。部屋の主に勧められた応接ソファーに腰を下ろす事も忘れてしまう。
「――どうした、波留真理」
「…いえ…失礼ながら…――何ですかあれ」
 淡々とした声を波留は相変わらずだと思う。だからこそ彼は、あの机上の現状は何だと思わざるを得ない。
 戸惑いの感情を隠さず、彼は右手でやんわりとその方向を指し示し、訊いた。無礼な客人の態度に、部屋の主は僅かに怪訝そうな顔を見せた。示された方向に視線をやり、波留が捉われているそれを認識する。
 部屋の奥に位置するのは、黒いモノリス状のデスクである。それは机である以上にメタルへの接続端末であり、ここまでの巨大な端末を所有する人間は人工島にもそうは居ない。権力の象徴とも言えた。
 そのモノリスの上に、紙屑が散乱していた。少なくとも来訪者たる波留はそう認識してしまっていた。
 部屋の主はそんな彼を見据え、簡潔に答えた。
「――折り鶴だ」
 遠目から見れば「紙屑」に思えてしまうそれらも、凝視すれば確かに鶴としての形が折られているようである。明確な回答を得た波留にも、それは理解出来た。
 しかし、それが何故ここに存在するのか――そこは相変わらず理解出来ない。
「…何故そんなものが、ここに」
「指先のリハビリだ」
 またしても簡潔に答えを寄越しつつ、その彼は両手を胸の前に持ってくる。無表情のまま、軽く10本の指を動かしてみせる。その動きはかなりのレベルで滑らかだった。健康な人間と表現しても差し支えはない。
 その答えに、波留はその相手をじっと見据えた。足元から頭上まで、視線を走査する。その彼は、2本の足でしっかりと床を捉えて立っている。話には訊いていたが改めて見ると、その「回復振り」には驚いてしまう。
 しかし、波留にはまだ引っかかりが存在する。それを新たに指摘した。
「――でも、ここ…アバター空間ですよ?」
 彼らが居るこの「部屋」は、リアルの電理研最深部に存在する久島永一朗のプライベートルームそのままである。
 しかし、波留が指摘するように、ここはメタル領域に再現されたそのプライベートルームのアバター空間だった。波留もその相手も、メタルアバターとしてログインしているに過ぎない。
 波留は現在の彼の容貌そのままのアバターを使用している。そして迎える側も、リアルの容貌そのまま――久島永一朗の義体を用いた姿のアバターだった。
 久島当人に設定され、久島自身の脳核に起動を依存しているそのAIは、彼以外のアバターを使う事を知らないのだろう。何せメールの送信者名から「久島永一朗」のままなのだから。波留はその事情を理解しており「全くの他人」が久島の容貌を用いている事を咎めるつもりはない。
 久島永一朗そのものの姿をしているそのAIは、客人よりも先にソファーに腰を下ろす。対人プログラムが一切インストールされていないが故の態度である。だから波留も不快には思わない。
「私はAIだからな。リアルの義体にせよメタルアバターにせよ、電脳経由で操作している状態に変わりはない。ならば、どの状態で手指のリハビリをやろうが、同一の行為と言えよう」
 そのAIはスーツに覆われた足を組み、その右膝の上で両手を組み合わせた。それらの動きはつくづく健康な人間と遜色ない。
「――そういうものなのですか」
 答えられた波留は、相変わらず納得が行かないような顔をしていた。首を捻る。
 そもそもこのAIがどういう事情でまともに動けるようになったのかも、謎なのである。ある朝に彼は突然歩き始めて、その事実を把握した電理研が彼の機構を洗いざらい調べてみたら、制動系プログラムが新たにインストールされていた――波留はそう訊いていた。
 ならば、そのプログラムを彼にインストールしたのは、一体誰なのだろうか。
 このAIがそれを自作するのは、理論上は充分に可能である。しかしプログラムを作成したにせよ、彼がシステム管理者権限を持たない限り、新たなプログラムを自身に追加インストールする事など出来ないはずなのだ。
 その一方で、波留には別の疑問も存在する。AIやアンドロイドとはプログラムに全ての機能を支配される存在である。だからこそ、制動系プログラムを持たなかった以前の彼は車椅子の身の上だったのだ。
 そしていざ制動系プログラムをインストールされたならば、それで完了のはずである。多少はハードウェアたる義体との整合性の確保の必要性はあるにせよ、人間のリハビリ紛いの如き行為に果たしてAIとしての意味などあるのだろうか?
「リハビリとは根気良くやるものだそうだからな。すぐに成果を求めてはいけないし、決して焦ってはいけない」
 そんな疑問を内心に渦巻かせている波留に、久島のアバターは淡々と告げた。
「部屋から出る事も出来ないような暇な私は、無駄に時間を浪費せずにそれをリハビリに費やしただけだ。結果、充分に成果を得る事が出来た」
 言いつつも、彼はちらりと後ろを見やる。そこにあるモノリス上の折り鶴の山を見ていた。その全ては真新しい折り紙で作られている。おそらくは、折った時点でその折り紙の設定を初期化して真っ新な状態に戻し、また折る練習を繰り返していったのだろう。その点では、ここでのリハビリ行為はメタルアバターの利点を生かしている事になる。
 折り鶴の山を見つめるAIの横顔に、波留は何処か満足げな表情を見出した。しかし一瞬後、彼は理性でその印象を打ち消す。人格プログラムもインストールされていないAIに過ぎない彼がそんな顔をする訳がないだろう――そう否定していた。
「――まあ、あなたがそうお思いなら、それでいいのではないでしょうか」
 最終的に、波留は微笑みを浮かべる。彼はそんな事を言っていた。それは半分は本心である。そして残されたもう半分は、自分を納得させるための方便だった。
 ソファーに座らず立ったままの波留は、部屋を見渡した。このアバタールームはリアルの部屋を完璧に再現している。必ずしも必要ないはずの棚やその中身、部屋の片隅の観葉植物までをも投影していた。
 その風景に、波留の記憶が刺激される。目を細めた末に、言った。
「――折角だから、紅茶でも淹れましょうか?」
 その声に、ソファーの久島は反応する。顔を波留へと向けた。怪訝そうな声がそれに続く。
「…紅茶、か?」
「ええ」
 波留は頷いた。彼の視線の向こうにはひとつの棚がある。そして彼の記憶が正しければ、あの棚にはティーセットや紅茶の茶葉がいくつか収められているはずだった。
 アバター空間だから、あの部屋の完璧な再現は出来ていないかもしれない。しかしその場合には、波留自身がそれらを構築すればいいだけの話だった。ここはメタルアバターの空間である。ダイバーたる彼に、単なる装飾品に過ぎない新たな物体の構築は、造作もない芸当だった。
「ここがリアルでない以上、所詮は真似事ですけどね」
 波留は自嘲気味に笑いを浮かべ、そう言った。紅茶を淹れて飲もうとも、それはリアルの感触ではない。彼はそれを理解している。幻の感覚を楽しめるのがメタルの利点ではあるが、一方ではそんな覚めた視点にも立ってしまう。
 AIはしばし波留を見上げていたが、やがてゆっくりと視線を外す。無表情を保ったまま、応接テーブルに視線を移した。そして、膝の上に組まれた自分の両手を見やる。
「――私は、結構だ」
 やがて、淡々とした声が波留の耳に届く。その答えに、波留は意外そうな表情を浮かべた。
「真似事はお嫌いですか?」
「そうではない。私には味覚が実装されていないのだ」
 久島のアバターは俯いたまま、そう自らの設定を告白した。そしてその口振りのまま、続ける。
「仮に君が上質な紅茶を淹れても、私にとっては適温のお湯に過ぎない。君のその行為は徒労に終わる」
「手指同様に、リハビリしてみては?」
「プログラムが実装されていない機能の開発は無意味だ」
 ――そう言うものなのですかね。
 問答を交わしていた波留はその言葉を再び用いようとしたが、止めた。「手指のリハビリ」には意味を見出すと言うのに、味覚に関してはこうも態度が違うのかと思う。彼には、どうもこのAIの基準が判らなかった。まるで、人間のようで――。
 そこまで思考が至った時点で、波留は無意識に眉を寄せていた。
 見下ろす視界に映るアバターは、彼の親友そのものである。今までは車椅子姿であったために一線を画していた気がしていたが、身体を自在に動かせるようになった今では御丁寧に久島自身と同じスーツと革靴を身に付けている事に気付かされる。改めて見やれば、明らかにこのAIの容貌は全てが久島永一朗そのものなのだ。
 しかし、漂う雰囲気は人格を持たないAIのそれだった。彼はあくまでも久島の記憶と知識のみを受け継いだ存在である。人格プログラムすらインストールされていない、真っ新な存在であるはずだった。少なくとも久島自身が遺した当初の設定は、そうだった。
 しかし、このAIがメタルに漂う久島の記憶の断片を浚い、徐々に「久島そのもの」に近付く可能性を波留は見出した。それは電理研にも秘密裏に行われている事であり、波留はそれを容認した。だからこそ彼は、久島の実姉に「彼をこのままにしておいて下さい」と懇願したのだ。あの時波留がそう頼み込まなければ、彼女は肉親として「久島の死」を認め、結果的に久島も「彼」も消滅した可能性が高かった。
 それを回避した結果が、眼前に現れつつあるのだろうか。
 「人形遣い」としての久島の制動系プログラムすら、メタルの海から取得したのだろうか。
 だから、彼は歩けるようになったのだろうか?電理研が彼の機構を調べ上げても、発見されない程の状況なのだから。
 波留は、自らの目の前に悠然と座っているこのAIが、人の支配から離れてゆくような心地を覚えていた。AIにはマインドコントロールが掛けられている以上、そんな事はあり得ないのに。
 そして仮に「彼」が人の支配から独立するとして、それが好ましい事態なのか、波留には判断がつかない。その心地が僕の妄想で終わっていれば何ら問題はないのにと、何処か消極的に思うのみだった。

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