波留真理は、ゆっくりと瞼を開いてゆく。
 彼の眼前に広がるのは、広い天井だった。それは彼にはある程度は見慣れた光景ではある。しかし、ここ数ヶ月は御無沙汰となっていた代物だった。
 記憶と多少違うのは、若干の薄暗さではある。周辺の壁面は全面ガラス張りであり、そこから夜闇が覗いていた。
 溜息をつく。電脳経由で天井の灯りを操作する。しかし過剰に光量を出さない。むしろ、最小限に絞っていた。彼を頭上から僅かに照らすのみとする。
 そして彼は両手を目元に伸ばし、そこを拭った。疲労感が脳に去来している。その感覚は、メタルダイバーたる彼には馴染みのものだった。
 預ける背中には程良く柔らかいクッションの感触が伝わってくる。首を振ると、解いた髪が首筋にまとわりついてきた。
 右手首には黒いゴムを引っかけている。それで髪を結ぶのはひとまず先として、彼は両手を顔から剥がして腰の両脇についた。身を起こす。
 彼の視界には、ダイアログがちらついている。メタルダイブからログアウトしたにせよ、完全に電脳から切断はしていない。そこに表示されているのは、今まで彼が集めてきた観測データだった。
 暫く眺めた後、波留はそれらを閉じた。ベッド越しに振り返ると、そこには柱状の端末が存在していた。
 本来ならばバディを伴ってダイブし、バディがその端末を扱ってメタルダイバーをサポートすべきではある。しかし、その端末単体でも最低限の補佐は可能だった。
 長い髪を大きく掻き上げる。彼はベッドから足を下ろし、そこに脱いでいた靴を履きに掛かった。きちんと揃えられていたスニーカーに足を収め、床に立つ。託体ベッドの表面を手で軽くなぞると、下部に刻印されているメーカーの社章が目に入った。
 波留はそれを一瞥した後、歩みを進める。扉をくぐり、廊下へと出た。そのまま歩いてゆくと、薄暗いながらも視界が開ける。
 ホール状の広間にはテーブルが壁面に沿って設置されている。そこには座り心地が良さそうな椅子が何個か揃っている。
 そして、何段かの階段を昇った高台が、応接間となっていた。高級そうなソファーとテーブルが中央に位置し、そこをぐるりとスロープが周回している。
 部屋の各所には観葉植物が置かれており、緑の彩りを追加している。それらは青々としており枯れる様子もなければ、逆に無秩序に茂っている様子もない。
 波留はこの室内を一望した。何もかもが変化していないと思う。自分はここの開錠キーを処分したと言うのに。
 ソファーの上では、あの灰色基調のぶち猫が丸くなっていた。波留の自宅同様にすっかりリラックスしてしまっている。もっとも、この場所も「彼」にとっては馴染みである。この猫特有のある種の図太さを実装していなくとも、その態度は変わらなかっただろう。
 横たわり寝息を立っている怠惰な猫の様子は、波留の視界にも入っている。彼はそれを見ると、苦笑を誘われた。全くもって「彼」は変わっていない――。
 ここは、海洋公園に位置するテナントのひとつである。
 海に面し、ハーバーを備え付けているこの施設は、以前波留が構えていた事務所だった。
 しかし、今では閉鎖状態であるはずだった。玄関のガラス戸は施錠され、CLOSEDの看板が下げられている。マジックミラーとして操作されたガラス壁は、外から中の様子を透過しないように設定されていた。
 その立地条件は非常に良い。ましてや地上区画の面積が限られている人工島では、遊休地など存在してはならないはずだった。
 しかし、ここは閉鎖されている。誰も立ち入らないまま、4ヶ月を経過していた。
 その理由は、権利者がここの管理を一切放棄していないからである。登記上の権利者とは、電理研統括部長たる久島永一朗だったからだ。実際の事務所の主は波留真理だったにせよ、法的には違う。
 いずれ久島は波留にこの事務所を譲るつもりだったかもしれないが、現実にはその措置は行われていない。だから、この事務所は宙に浮いた格好になっている。
 そして波留は、7月末の超深海ダイブの前にこの事務所を引き払った際、開錠キーを電脳から完全に削除してしまっていた。
 何故なら、この事務所をもう利用するつもりがなかったからである。そうでなければ、事務所を存続させたまま深海への旅に出ていただろう。しかし現実には私物をすっかり処分し、電理研入りしている。
 ――久島がメタルに消えた時点で、この事務所の役割は終わったのだ。
 波留の中には、未だにその思いが残っている。
 この事務所に集っていた人々は、あの日以来散り散りになった。アンドロイドは初期化されて事務所での記憶を失い、非常勤の青年は電理研統括部長代理の任に就いた。そうなると波留としては事務所の維持が全く念頭に無くなる。自然、自分のバディだった少女にも別れを告げる事となった。
 今では、それらの関係はある程度は修復出来ている。しかし状況は明らかに変化している。もうあの日以前には戻らない。ならば、今更事務所を再開する事もない――。
 そんな事を想いながら、波留はガラス戸の玄関に辿り着く。その先に広がるのは、漆黒の闇だった。街灯の灯りも心許ない。その闇を、彼はじっと見据えていた。

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