メタリアル・ネットワークの環境モジュールは海そのものである。接続する思考の流れは海水を模して流動し、定着した情報は珊瑚などの固形物の形を取る。 その情報の海を回遊する魚類は、ワクチンや警護プログラムなどの思考複合体だった。走査されるプログラムすら魚類のアバターを用いるのが、メタルの海での暗黙のルールである。 プログラム理論上では、アバターなどプログラムの装飾品に過ぎない。ならば、どんなアバターで外装しても構わないはずである。 だが実際には、魚類アバターを実装した方がプログラムの過不足ない能力が発揮される傾向にあった。同一のプログラム言語を用いた方がプログラムの相性がいい――そう言う前時代ネットワークの怪しい伝説にも似た現象ではあった。 そんな事情のため、メタルの海ではガイドバグも魚の形状を取るのが慣例となっている。それらには単純なプログラムを機能させ、プログラマーやメタルダイバーのサポートを行う任務が与えられていた。 今もそんな魚の一種が、単独で海中を進んでいる。それに続くのは、独りのメタルダイバーだった。 彼はダイバースーツに全身を包み、フルフェイスのヘルメットを装備して泳いでゆく。ガイドバグの動きはそう速くないため、彼も足のみを動かして海中を進んでいた。 ダイバーの視界には様々なダイアログが表示されている。彼の電脳がフル稼働し、周辺情報を取得していた。進む深度は増してゆく。 彼は潜りながら、海水成分を分析する。情報の海に微かに紛れ込んでいるプログラムを選別し、そこから自らを偽装して行った。 防御プログラムとは、海洋生物のアバターを用いているような一見して明らかな存在ばかりではない。特に、メタルを統括管理する電理研ならば、海水に密かに混ぜ物をする事も可能だった。 彼らは、自分達の本拠に近い区画に微細なプログラムを散布し、そこから侵入者の情報を読み取り、電理研に保管されている各種リストの登録データと比較する。そして必要ならば該当の人物へと警告を行い、排除に掛かるのだ。最悪、接続プログラムに介入して強制ログアウトも辞さないのが、電理研の姿勢だった。過剰防衛は取らないが、決して甘い相手ではない。 一流のハッカーやクラッカーは、電理研が繰り出すプログラムの影響を可能な限り受けないようにしてメタルダイブする。そして現在ダイブ中のこのメタルダイバーのレベルは、充分にその及第点にあった。 ガイドバグが螺旋を描いて沈降してゆく。彼はそれから一定の距離を取り、追っていた。 急にそのガイドバグの動きが鮮明になる。僅かに発光点滅し、ダイバーのバイザーに跳ね返りが来た。主に何らかの情報を送信する。 すると、ダイバーの泳ぎが止まる。彼はその場に留まり、ガイドバグを見送った。望遠プログラムと探査プログラムを用い、ガイドバグを遠巻きに見守る動作に切り替えた。 まるで滑空するように一直線に進んでゆくガイドバグの先には、巨大な鮫が回遊していた。 その鮫の動きはゆっくりとしている。のしのしとでも表現するのが適当な動きで、堂々とゆったりと泳いでいた。大きな口は半開きのまま進んでおり、並ぶ鋭い歯がちらちらと垣間見える。その隙間を、海水が通り抜けていた。 ガイドバグは、その周辺を飛んでゆく。鮫の様子を伺うように、小さな魚がひらひらと泳いでいた。 鮫はゆっくりと泳いでいたが、その前方に何らかの固形物が漂ってきていた。それは海流に乗って来たもので、鮫の前にやってきたのはおそらくは偶然の産物だった。 それは、メタルの海に定着していない情報の塊だった。或いは逆に、珊瑚や魚類などの思考複合体であったはずの存在が崩壊した成れの果てなのかもしれない。それらを総称して、一般にはジャンクデータと呼ばれている。 ともかくその塊が近付いて来た鮫は、くいっと鼻先を持ち上げた。次いで、大きな口ががばりと開く。そして尾を打ち振るい、一気に海水を掻いた。 瞬時に回遊スピードが増す。開いた大口が海水を大きく飲み込む。そしてそのままの勢いで、鮫はその大口に情報の塊を飛び込ませた。 ばくんと効果音でも立てそうな情景が深海に現れる。鮫は咥内のものを飲み込むように、その大口を閉じた。振動が周辺に広がる。海水が波打った。 鮫は咀嚼するように閉じたままの口を動かす。その口許から光の断片が散乱した。 ふと、気付いたように鮫が視線を上部へ向ける。巨体に似合わないつぶらな瞳が、自らの周りを飛び回る小さな魚を認識した。 途端、鮫は尾を振るった。まるで水面へと飛び上がるように、上部へと巨体を翻した。大口を開き、閉じる。その先にはガイドバグが存在していた。 しかし済んでの所で、小さな魚は鮫の襲撃を逃れた。尾びれを鋭い刃先が掠めるが、プログラム自体にダメージはない。 逃げるようにガイドバグは旋回する。そこに、鮫が追いかけてきた。再び牙を繰り出す。小さな魚は緩急を付け、その攻撃を交わした。 その様子を見守っていたダイバーは、ガイドバグに帰還命令を下した。このままでは鮫に破壊されかねないと判断したからだ。 今まで彼は、このガイドバグを用いて鮫型思考複合体を観察していた。その鮫自体の状況は勿論、動作環境としての周辺調査も行った。そのログは逐一自らの元へと送信されてはいるが、本体であるこのガイドバグを破壊させないに越した事はない。 その判断の元に、彼はガイドバグへの命令を変更していた。調査フラグを外し、帰還モードへと変更する。彼の元へと即時帰還させようとした。 ガイドバグは方向転換し、全速力で泳ぎ始める。追う鮫を引き離そうとした。 しかし、鮫を振り切る事は出来ていない。あの巨体の何処にそんな俊敏さが備わっていると言うのか、見事に小さな魚の後を追っていた。 ふたつの泡のラインが、ダイバーに迫ってくる。先行する方は回収すべき味方だが、それを追ってくる巨体は敵対思考複合体だった。 バイザーの奥で、彼は眉を寄せる。すっと右手を横に伸ばした。飛んでくるように迫るふたつの泡のラインを、じっと見つめる。 迫ってくる魚と交錯しそうになった瞬間、彼は身体を捻った。横にすっ飛ぶように、勢いがついた物体達を交わす。 そしてガイドバグの軌道も変化する。彼を追い、急激に横へと移動した。その先には、伸ばされた右手がある。 鮫が巻き起こす引き波を全身に感じ、それに付随する泡がバイザー越しの視界を占拠する。そんな中、彼は右手に接続してくるプログラムを感じ取っていた。 泡に紛れつつも、ガイドバグが彼の右手に吸収されてゆく。グローブ越しではあるのだが、徐々にその魚のアバターが光芒と共に解け、消失していった。 このメタルダイバーは、その観測プログラムを直に回収する事に成功していた。一切の攻撃を受けさせず、データの破損もなく目的を達成した事になる。 その彼に、今度は鮫が追いついてくる。目標としていた魚が唐突に鮫の視界から消えたと思ったら、視界にはもっと大きな標的が現れたのだ。 今まで相手にしてきた、ちょこまかと動き回る小賢しい矮小な存在よりも、噛み砕き易いサイズに思われる。 攻撃プログラムとおぼしき鮫の本能が刺激されたか、大口をぱっくりと開いた。導線上に居る人間を食らわんとした。 不意に、そのメタルダイバーが右手を出した。瞬時に、そこに光の筋が現れる。海水にその光が走り、彼のバイザーを照らし出す。 動作は一瞬だった。 メタルダイバーはまるで飛び上がるように水を蹴り、飛びかかってくる鮫の頭を左手で押し付けた。足で水を掻き、更に左手では堅い物体を押す事で運動エネルギーを得る。結果的に、彼は倒立でもするように身体を上部へと持ち上げていた。 鮫の大口がばくんと閉じるが、そこに彼の身体は残っていない。大量の泡が海水へと巻き散らされた。 攻撃が失敗した事を、鮫は悟る。そして頭を押さえつけられている事にも気付く。つぶらな瞳を自らの上部へと向けた。 それが、その鮫型思考複合体が能動的に行った動作の最期となった。 その瞬間、メタルダイバーは鮫の眼前に右手を繰り出す。その動きには光の帯を伴った。その光芒が、鮫の眉間に食い込んだ。 途端、ダイバーは自らを支えていた地点を失った。彼が左手をついていたその鮫の頭部が、一気に光を発して消失したのだ。 光は海水に解けるように散乱し、無数の粒となる。その一端に、彼は差し込むように細い短刀を突き込んでいた。 攻撃プログラムを、思考複合体の弱点へと用いる。それが、先程の動作だった。 メタルダイバーがコーディングする攻撃プログラムは、海モジュールに対応して銛やナイフの形状を取る。彼はダイバーズナイフの形状を模し、鮫の眉間へと攻撃した。 眉間とは大半の生物にとって弱点となる。基本的に眼球には脳が近接しているためだ。更に、顔面に眼球をふたつ所有している大半の生物にとって、眉間とは他の弱点よりも目標とし易い。攻撃するには打ってつけの箇所と言えた。 散乱する光の粒を、彼は黙って見ている。その粒達はやがては寄り集まってゆき、最終的には10数個の光球へと落ち着いて行った。 彼は両手を大きく広げる。すると、その両手から網が出現した。一塊となって転がっている光球達を覆う。そしてそれらを包み、縛り上げた。 まるで漁師の戦果のように、それらを肩に担ぐ。そして彼自身も光を発する。 瞬時にそのダイバーはメタルの海から姿を消す。彼はログアウトしていった。後に残されたのは、平穏なメタルの海だった。 |