瞼を上げると、目の前には何の変哲もない壁がある。 今の波留の視界に映るものとは、日常の風景だった。彼が腰掛けるソファーの傍らでは、猫が丸くなっている。おそらくは先程と寸分違わぬ姿勢のままだろう。 ――冷めるほとぼりなど、あるのだろうか。 先程はああも言ったものの、その疑問は彼の中に確実に存在している。しかし、先程の会談ではそれを敢えて無視していた。そう告げなければ、互いに目覚めが悪いだろうと思ったからだった。 ともかく自分は、あの鮫型思考複合体の調査から外された。以前は自分に与えられた案件で、攻撃力が著しく高い危険な相手だと言うのに。 波留は、突き付けられたその事実を噛み締める。 もっとも、前回こなした排除の案件の詳細はレポートとして電理研に提出している。今回もそのレポートを踏襲すれば、ある一定レベルのダイバー達には同様の作業が可能だろうと思われた。だからこそ、今回は波留を外しても構わないと判断されたのかもしれない。 しかし、今回は「調査」である。前回のように、単に破壊してしまってはいけないはずである。回遊する鮫を観測し、必要があれば捕獲すらしなければならないだろう。ならば、破壊命令よりも難易度が格段に上がるのではないか? それを誰がやるのか?――僕以外の、誰が? ――電理研とて愚かではない。自分以外にもレベルが高いダイバーは何人か登録されている。今回は彼らに依頼すればいい。たまには休暇を楽しんでもいいではないか。お前は、何を思い上がっているのだ? 今回の依頼をこなすに当たって、適任者は波留にもすぐに思い当たる。その彼らは前回の案件にも参加しているのだから、今回依頼するにも何ら不自然ではないはずである。少なくとも、建前としては成り立つだろう。 「前回のチームリーダーだった波留が、今回は何故外されているのか」との疑問は、彼らも抱くかもしれない。しかし、彼らが有能なのは何もメタルダイブ能力においてばかりではない。何らかの事情が横たわっているのを推測し、敢えて電理研側に問おうともしないだろう。火中の栗を拾いに行く愚を犯す人々ではないはずだった。 それで、全ては丸く収まるはずだった。今回、様々な事情が絡み合った末に、自分の出番はない――それで納得すべきだと波留にも判っていた。 しかし波留は理性ではそう考えているのだが、心の何処かに引っ掛かりを感じたままだった。 彼は、そんな自分を大人げないと思う。電理研からの不信感は、自分が蒔いた種である。そして外されたにせよ、案件をフォロー可能な人員は揃っているのだ。何を不満に思う事がある? そもそも電理研からの依頼を受けなければ、オペレーションルームやメタルダイブルームなどの施設の利用は不可能である。メタルダイブ自体は個人でも可能だが、今回のような危険が予想される案件では安定した環境を確保すべきだった。 波留の自宅には、その手の装備が一切存在していない。個人購入可能な託体ベッドすら持ち込んでいなかった。 あの中国大陸でのメタルダイブのように、補助装置を用いてのダイブならば個人でも可能だろう。しかし、あれは危険過ぎた。「彼」から邪魔が入らずとも、何かが起こった可能性が高かったのだ。 バディのサポートも専用設備の助けも無しに、危険な思考複合体相手の案件に手を出すとは、どう考えても自殺行為に他ならない。仮にそんな火中に手を突っ込むとすれば、それは焦りから来る行動以外の何物でもなかった。 波留はそう考え、自らの思考を律しようとしていた。その傍らでは、相変わらず暢気に猫が丸くなっている。その腹は僅かに上下しており、呼吸する生物としての状態を保っていた。 |