ミナモと別れた波留は、すぐに自宅へと戻った。 旧メインストリートから少し奥の路地に入った場所に位置する彼の自宅住居への道程は遠くはない。彼は門扉のコンソールに開錠キーを送信し、玄関を抜け、そのまま居間スペースのソファーに腰掛けた。 そのソファーの片隅には灰色基調のぶち猫が丸くなっていた。猫は主がソファーに腰を下ろした際の軋みに顔を上げる。視線を真ん中に座る人間へと向けた。髭をぴくぴくとさせる。 しかし、すぐに興味を失ったらしい。彼は再び顔を落とし、丸くなった。瞼を細め、そのまま動かなくなる。 相変わらずの飼い猫の態度に、波留は苦笑する。しかしそれも長くは続かない。彼は自らの電脳にアクセスし、電通ダイアログを展開してゆく。先程の通信相手へと再送信を開始した。 リアルの彼は両目を伏せ、意識を集中している。しかし電脳を介したメタルの視界を彼は見ていた。そこには大きなモニタ状のダイアログが表示され、前面には椅子に腰掛けている白衣の青年の姿があった。 「――波留さん。わざわざ御連絡ありがとうございます」 今回は全身像のアバターを用いてきたソウタは、両手を膝の上で組んでいる。今度のアバターは先程よりは感情の表現が多種多様となるはずだが、彼の表情は相変わらず生真面目そのものだった。それはアバターの技術上の限界ではなく、彼生粋の気質のせいなのだろう。 「いえ…それで、僕に何を?」 波留もソウタに応じ、何かに腰掛けて腕を組む。その周辺は、メタル領域に構築された応接間の様相を呈し始めていた。 対面しているソウタはゆっくりと頷く。そして説明を始めた。 「――波留さんには、メタル内を回遊していた鮫型思考複合体の排除を以前依頼していましたよね?」 「ええ…――」 波留は首肯した。彼の記憶には充分にその覚えがあった。それは、9月末に電理研から請けた案件だった。波留はそれを10月初頭のうちに完遂している。 「その際、波留さんは他のダイバーの協力を得てその複合体を倒し、それが保持していたジャンクを回収したとのレポートを当時のうちに頂いています」 ソウタの説明は簡潔だが、不足はない。そしてその案件の際には多少のトラブルはあったが、大事には至っていない。波留にとっては「普通の案件」に過ぎなかった。 しかし、それを今更挙げ連ねられるのは意外な話だった。それではまるで、仕事に不具合があったかのようではないか――。 そんな波留の思考に楔を打ち込むように、ソウタは淡々と告げた。 「――先程、その思考複合体に著しく酷似したプログラムがメタル内で観測されました」 瞬間、波留の表情が引き締まる。ソウタからもたらされるのは相変わらず簡潔な説明ではあるのだが、波留にはそれで充分だった。ソウタが一体何を言いたいのか、すぐに悟る事が出来ていた。 波留は下唇に歯を立てた。噛み締めると、微かな鈍痛が伝わってきた。そして、静かに訊く。 「…人的被害があるのですか?」 ――排除完了して安全宣言を出したはずの領域に、またその鮫型思考複合体が出没したのだ。何の対策も取っていないダイバーが巻き込まれたら、それは以前の思考複合体からの被害に匹敵する事態に陥るだろう。 メタル利用者のブレインダウンは、すぐに電理研へと情報がもたらされる。その全てが統括部長代理に収斂される訳ではないが、彼が外部に出した依頼が完遂されていなかったが故の被害ならば、報告が来ていてもおかしくはない。 ソウタは無言で首を横に振る。そして台詞で補足を加えた。 「電理研統括メタルの各所に配置されているガイドバグがその思考複合体の出現を観測したんです。すぐさま該当領域にダイブしていたダイバー達に通告し、退去させています」 「…そうですか…」 とりあえず、波留は安堵の溜息を漏らしていた。 仮にあの鮫型思考複合体と同種ならば、圧倒的な破壊力を誇るはずである。歴戦のメタルダイバー達ですらその牙に掛けてきたのだ。準備なしに相対しても、おそらく倒されるだけだっただろう。前回はブラックアウトに陥るダイバーが出た時点で波留に依頼が回ってきたが、最悪ブレインダウンを引き起こしかねない破壊力を想定した攻撃プログラムだったのだ。 「その、ガイドバグの観測ログのみが現在の資料です。しかし、そのデータからは以前の鮫型思考複合体との類似性を見いだせるのです」 ソウタからの情報に、波留は腕を組んだ。思考のままに、口にも出す。 「――あの後にも仲間が残っていたのか、また偶発的に出現したのか…」 前回は「排除」依頼だったため、発生要因の特定には至っていない。観測されたのが1体だけだったために、その1体さえを倒してしまえば問題ないと見なされたからである。 しかしまたその思考複合体が観測されたとなると、話は別である。発生要因の特定まで調査しておくべきだったのだろう――その指摘は、後の祭りと言う奴だろうが。 「…それとも、或いは…」 波留は何か言い掛け、しかしその口を噤んだ。生半可な覚悟ではその先を口にしてはいけないと思ったからだった。 ちらりと視線を巡らせると、対面に腰掛けるソウタが頷いて見せた。波留にその先を促す素振りである。青年の表情は堅苦しいままだった。それはアバターの性能のせいではなく、やはり彼の本心がそう言うものだからだろう。 波留は軽く口を開く。唾液で中を湿らせた。溜息をついた後に、先程から準備していた言葉を放った。 「――…誰かが故意に…」 その言葉に、ソウタは重々しく頷いていた。どうやら彼が予測していた言葉と内容は一緒だったようだ。 コンピューターネットワークの歴史の中でセキュリティの堅牢さは随一たるメタルとは言え、そこに挑戦を仕掛けるハッカーやクラッカーは後を絶たない。特にメタルの開発元である電理研の統括領域ともなれば、彼らの歪んだ挑戦心は刺激されるものなのだろう。 メタル開闢から20年間、電理研はその手の挑戦を受け続けた。そしてその全てをシャットアウトし、防衛記録を更新してきている。それはシステムを構築する電理研所属のプログラマーの功績であり、更には外部委託のメタルダイバー達の協力の賜物でもあった。 今回の鮫型思考複合体も、実はハッカー達のやり口なのだろうか。 一旦は排除を成功させておいて、実はそれは実験の一種だったのだろうか。あの当時に関わってきたダイバー達をデバッガーとして利用し、その際に発見された弱点を補強して、また放流してきたのだろうか――? そこまで思考を纏めた時点で、波留は頷いた。彼の中に、決意が固まっていた。 「――判りました。僕が再調査しましょう」 波留はきっぱりとそう言った。 「当時僕が調査しなかったから、今の状況があるのです。ならば不始末をつけるのは、僕の責任です」 彼は両膝を包み込むように手を当て、正面を見て告げる。 そんな波留をソウタは見据えている。眉を寄せ、沈黙していた。そして、やがて彼は話し始める。 「――…大変申し上げ難いのですが…」 ソウタはそう言い掛けたものの、その先が続いて来ない。明らかに言葉を選んでいる。しかしすぐに振り切るように、口を開いた。硬い表情のまま、言う。 「電理研としては、波留さんに再び依頼するつもりはありません」 「――…え?」 唐突な宣告だった。それに、波留の思考が立ち止まる。彼の戸惑いをよそに、ソウタの言葉は続いて行った。 「今回は、こちらで独自に調査を行うつもりです。波留さんにはその旨お伝えしようと思い、電通しました。これは、元々は波留さんの案件ですから。筋を通さなくてはならないと思いましたので」 一語一句を正確に告げつつも、まるで台本でも読み上げるかのようにソウタは語っていた。そしてその言葉に、波留はソウタの真意を悟った。 「…判りました」 しばしの沈黙の後、波留は了承の意を伝えた。軽く目礼する。 どうやら、自分は充分に、不興を買っている。確かにあれだけの事をしでかしたのだ。今更信用しろと言う方がどうかしている――。 ――干されてなんかなかったじゃないですか。波留の脳裏に、ミナモの台詞がよぎった。少女の明るい笑顔が暗闇の中にちらつく。しかし、その希望的観測は潰えたようだった。ソウタ自身がそれを告げて来たのだから、明白である。 波留は顔を上げた。ソウタを真正面から見据えた。真剣な表情のまま、口を開く。 「――ソウタ君。最後に、ひとつお訊きしてもいいでしょうか?」 「…この案件に関する事は、守秘義務に該当しますが」 ソウタは躊躇いがちにそう言った。遠回しに拒否の意を見せる。確かにそれは「第三者」に宣言すべき事なのだが、この案件から排除した「第三者」の波留の前では慇懃無礼の何物でもないだろう――彼の複雑な心理がそこに見て取れる。 しかし波留は言葉を重ねる。彼とて、そんな事情は判り切っている。彼は今までにも電理研委託メタルダイバーとして、守秘義務が厳しい案件をいくつもこなしてきているのだから。そこを、敢えて訊きたい事があるのだ。 「そこに絡むかどうかは判りません。とりあえずお訊きしますので、答えられなければ何も仰らなくて結構です」 波留が提示した条件に、ソウタは頷いた。その条件ならば、彼に異存はない。その先を促す。それに波留は頷き、質問した。 「ガイドバグが先程観測した際、メタルに何らかの異常は発生しましたか?」 その問いに、ソウタは目を瞬かせる。意外な質問だったらしい。視線を上向かせた。今の彼はアバターではあるが、他者には不可視のダイアログを展開して何らかのデータでも閲覧している様子だった。 やがて、視線を波留へと戻す。部長代理は淡々と結論を述べ始めた。 「――…いえ。俺の所にそんな報告はありませんし、メタルのログにも現れていません」 「そうですか」 ソウタからの回答に、波留は納得したように頷く。これは守秘義務に抵触するかどうか微妙な問い掛けにも思えたが、ソウタは誠実に回答を寄越してくれたようだった。ならば、それに満足する事にした。 「――それでは、僕はおいとまさせて頂きましょうか」 用件が済んだ波留は微笑み、一旦の別れを切り出す。その態度にソウタは表情を歪めた。何か、感情を刺激されたらしい。勢い込み、年上の友人の名を呼んだ。 「――波留さん」 「ソウタ君」 しかし、瞬時に波留は相手の名を呼び返していた。そしてその態度がソウタの気勢を制する。 何かを言い掛けていたソウタは思わず口篭もってしまった。そこに、波留は優しい口調で語り掛ける。 「僕、ミナモさんに言われてたんですよ」 「え?」 「あなたの話を訊いてあげるようにと」 その言葉に、ソウタは思わず仰け反った。アバターの背中が、そのままソファーに押しつけられる。そんな彼を、波留は穏やかに見やった。まるで優しく見守るかのような態度を見せている。 やがて、ソウタは身を起こす。今度こそ、何かを言い掛けた。 「波留さん、俺は」 「――あなたの難しい立場は理解しています。それを蔑ろにした僕が悪いんです。暫く、ゆっくりとほとぼりを冷ます事にしますよ」 しかし、波留はまたしてもソウタの気勢を制した。やんわりとした態度ではあるが、その実は何者も寄せ付けないようでもあった。 その固い意思が、ソウタの気力を挫く。彼はこれ以上何も言わない事を選ばざるを得なくなった。 波留は向かいの青年が口を噤んだのを見やる。この時点で、両者の会談は終了した。最早交わす会話は何も無くなる。どちらからともなく電通を切断する旨を通達し、もう一方もそれを了承していた。 |